初夏を感じさせるような濃い蒼天と少し日差しが強く感じられる6月29日、小郡市教育委員会主催で地元のボランティアさんが行う黄泉の道ハイキングへ参加してきました。
小郡市三国校区にある三国丘陵地域は古代から人々が住んでいました。また、交通の要所でもあり、古墳時代には九州最古級の首長墓系列を始め、県内有数の群集墳など多くの古墳が見つかっています。今回のハイキングでは古墳時代前期の古墳を中心に史跡をたどりました。
「黄泉の道」ハイキングは全長およそ4.6km、所要時間およそ2時間15分のコースだったのですが、当日は60人を超える人が参加していました。
※各史跡に関する説明は、当日の配布資料「史跡の概要」を参考に引用・記述させて頂きました。
9:00~ 受付
九州歴史資料館へ到着したときには、すでに多くの人が資料館玄関ホールの影で涼んでいました。私たちが到着したのは9:10頃だったのですが、その頃にはもう30人ほどが受け付けを終えており、今回は4班になりました。
9:20 開式
受付が終わってある程度落ち着くと、ハイキングの概要説明や諸注意が行われました。
それらが終わると、全員で準備運動を行いました。天気も良く、参加者は気持ちよさそうに身体を伸ばしていました。
9:45 出発
一行は、資料館建物周囲にある遊歩道の方へと歩き始めました。資料館の周囲にはまだ木々が生い茂っており、散歩道として整備された小道へ心地よい木陰を落していました。
遊歩道の途中にはフェンスがあり、そこから木立の中へ入りました。地元ではよく使われる道なのだそうです。土がむき出しになった細い道を少し行くとすぐに視界は開け、そこには山によって囲まれた眺めのいい田園が広がっていました(※タイトル写真の場所です)。説明によると、この場所にも古代の人々が暮らしていたそうです。
涼しい木陰の道を抜けると、みくにの団地へと出ました。途中で大行事公園の横を過ぎる時に、この公園には「大行事」と刻まれた石碑があるのだと聞きました。
10:00 ①津古永前遺跡(小郡市みくにの団地)
説明によると、この地は筑紫の君の出自と考えられる場所であり、津古永前遺跡は本来であれば「遺跡」ではなく「古墳」と言える史跡だったそうですが、貯水タンクの設置および解体作業の折に大きく削平され、「古墳」とは言えなくなってしまったそうです。
調査により、弥生時代終末から古墳時代前期にかけての「墓域」が営まれていたことがわかりました。出土遺物は二重口縁壺、甕棺、刀子、ヤリガンナ、鉄剣、ガラス製勾玉・小玉などです。
現在この場所はみくにの団地の総合公園として使われており、夏になると盆踊りが行われます。
公園の敷地東端に立つと、北は古処山地から南は耳納連山まで見渡すことができ、とても見晴らしのいい場所でした。
10:15 ②津古1号墳(小郡市みくにの団地)
先ほどの津古永前遺跡とは違った趣で、柔らかな若草色が表面を覆うこんもりとした丸い丘が住宅地の中に溶け込んでいました。地元の子供たちがよく草すべりをして遊ぶそうです。
古墳時代前期の3世紀中頃から4世紀中頃にかけての100年の間に、三国丘陵には4基の前方後円墳(津古2号墳→津古生掛古墳→津古1号墳→三国の鼻1号墳)が連続して築造されており、津古1号墳は、これら古墳群の中で、唯一保存されている古墳です。前方部をほぼ真北に向けた前方後円墳ですが、発掘調査はしておらず、内部の様子や遺物は分かっていません。
10:35 ③津古生掛古墳跡(小郡市三国が丘三丁目)
古墳そのものは、住宅地の造成のよって残っていませんが、築造は3世紀後半頃、津古2号墳に続くと考えられている前方後円墳です。現在の地形より20m高い位置にあって、古墳の周囲には方形周溝墓、円形周溝墓や土壙墓などが多数造られていました。
この古墳から出土した中国製の方格規矩鳥文鏡や、短い前方部に飾られていたと考えられる鶏型土製品(※タイトル写真にイラストがあります)から、この地域の有力な首長とその家族や近親者が埋葬されたと考えられています。
10:55 ④三国の鼻1号墳跡(小郡市三国が丘五丁目)
古墳は県道の造成により無くなっていますが、今の高さより20mも高い丘陵に墳丘があり、小郡最大の前方後円墳がありました。時代は4世紀中頃の築造と考えられています。津古古墳群の中では、1番新しい古墳です。古墳の大きさから、この地域で最大の権力を持つ人物が埋葬されていたと考えられています。
宝満川浄化センターの横に教育委員会の立てた看板はあるのですがが、周囲は整備された住宅と舗装された88号線(通称「七夕通り」)、そして広い敷地の浄化センターしかなく、今一つ古墳があったとイメージできませんでした。すると「三国の『鼻』と呼ばれる部分が分かるから」と、そこから数メートル南下して細い路地裏へ曲ったところへと案内されました。そこは三国が丘の端であり、8メートルほどの崖のように切り立った場所だったのですが、そこから見える景色は絶景でした。切り立った階段部分に立つと三国が丘が周囲より一段と高い土地にあることが分かります。北の方を見やれば確かに鼻のように長く伸びた台地があり、正面にはそこだけ盛り上がった乙隈集落が、南の方を見やれば花立山や、その奥には耳納連山まで見渡すことができました。
11:18 ⑤井の浦1号墳(小郡市三国が丘五丁目)
三国が丘駅前にある井の浦公園(井の浦近隣公園)は井の浦堤に突き出したような形の公園で、緑豊かな広い公園です。古墳近くの木陰で休憩した後、こんもりとした丘陵に上って説明を受けました。
ここで見つかった古墳は、独立した丘陵部の最高所に墳丘をもつ径24~25mの円墳で、周囲には約3m幅の周溝が巡らされています。古墳時代後期の6世紀後半の築造と考えられています。
保存のために本格的な発掘調査は行わず、造られた当時の状況の調査を行いましたが、横穴式石室の大きな石は無くなっていました。内部から鉄器、耳環、その他須恵器などを採取した後、盛り土をして築造当初の姿に戻されました。この周辺は、弥生時代から古墳時代にかけての複合遺跡です。
11:37 ⑥横隈山古墳(小郡市三国が丘七丁目)
途中でボランティアの女性から塩飴を頂き、それで塩分を補給しながらわずかに登り坂になっている三国が丘の住宅地を進んでいくと、前方に階段が上まで続いている丘陵がありました。足を踏み外さぬように上ると、そこにはまるで山の一部だけがそのまま住宅地に取り残されたように木々が茂っており、その一番高い所には住宅地を見下ろすように古墳が残っていました。横隈山古墳にはまだ土器の欠片があちらこちらに落ちているという話を聞き、数名の参加者は足元に目を凝らして、これじゃないか、これは違うだろうかと必死に探していました。
横隈山古墳は三国が丘の真ん中にある標高47mの丘陵頂部にあります。市民を中心とした保存活動により1973年に測量調査が行われて保存されています。
平成24~25年度には確認調査を実施しました。古墳は、前方部をほぼ北に向けた前方後円墳で、調査では円筒埴輪や家型埴輪等が発見されました。
家型埴輪は、近くの三沢蓬ヶ浦遺跡の埴輪かまから出土した家型埴輪の破片と同じタイプであることから、埴輪窯の年代である古墳時代中期の5世紀中頃と同時期に築造されたものと考えられています。
参 考:黄泉の道ハイキングマップ(©2014 Google, ZENRIN)