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新町 獅子舞

  去る7月27日(第四日曜日)、祇園祭のこの日に、新町の獅子舞が執り行われました。新町の獅子舞は安政3年(1856)に始まり、約160年の歴史を持つ伝統ある祭事です。獅子を納めている木箱には『安政三辰年』『六月吉日』の墨書が残っています。赤い獅子の大小、黒い獅子の大小と、計四頭の獅子を持っています。

 朝7時半、祇園神社に集まった『新町獅子舞保存会』の担ぎ手たちは、揃いの衣装に着替えます。上半身は、前掛けを着けるか裸。獅子に入らない時はその上に法被を着ます。下半身は、黒いズボン状の衣装に、地下足袋を履きます。以前は、獅子頭に合わせ、赤を基調としたものと、緑(黒)を基調にした衣装の二種類がありましたが、現在は黒一色のものに統一されています。衣装や胴部、鬣などは度々新調されていますが、獅子頭は修繕を繰り返し、現在でも当時のものを使用しています。

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 新町の獅子は、一頭につき二人の担ぎ手が必要です。頭を担当する者は、右手を獅子頭の喉部を持ち、左手を顎部の下に空いた穴に入れ、頭上に掲げます。獅子は頭だけでも相当の重さがありますが、たてがみ、胴部が付き、更に胴部が担ぎ手の汗を吸うことによって、その重さは10㎏近くにまでなります。また、胴部をすっぽりと被るために、視界は殆どなく、呼吸も難しくなります。胴を担当する者は、頭を担当するものを補助する必要があります。そのため、右手で前の者の腰を逆手で持ち、腰骨のあたりを押し上げ、前の者の足を軽くしてやります。左手は尻尾を掴んでいます。獅子のお祓い、一日の無事を祈願する神事を終え、いよいよ獅子舞が始まります。

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 気合の一声を合図に、獅子は歯を打ち鳴らし、雄叫びを上げます。そうして神殿の周りを一周し、祇園神社から日吉神社に向かいます。塩振り・水撒きと呼ばれる先導の後を、赤の大、黒の大、赤の小、黒の小という順番で続きます。赤の大が一番大きく重く、黒の小が一番小さく軽い獅子です。赤の獅子が雄獅子であり、黒の獅子が雌獅子だと言われています。

 日吉神社まで、数mという所で、先導の塩振り・水撒きが走り出します。それを契機に、獅子たちも頭を振り、歯を打ち鳴らし、雄叫びを上げながら走り出します。そうして、祇園神社の時と同様、神殿の周りを一周すると、神殿の前で再度獅子の歯を打ち鳴らします。

  新町の獅子には、“舞”も無ければ、太鼓や鐘を鳴らしたりするわけでもありません。頭を振って歯を打ち鳴らす、雄叫びを上げる、走る、という荒獅子ともいえる活発さが新町の獅子舞の特徴です。このような荒獅子になった背景として、この獅子が奉納された安政前後は、全国で地震が頻発するなど、社会的な不安が大きくなったことがあると言われています。人々の不安から、“災厄”を払うため、荒々しく、強い獅子が求められたのではないでしょうか。

  日吉神社から、東に向かい、ドラッグストアモリとヤマハ音楽教室の間の道から、新町区へ入ります。新町区に入って以降は、定期的に休憩を取りつつ各戸を回ります。重い獅子を担ぎ、炎天下の中走り回るため、細かな休憩を取らないと担ぎ手たちはとても一日持ちません。休憩所として自宅の一角を利用させて頂いたり、飲食物を提供して頂いたりと、地域の方の協力なくしては行えない祭りです。そうして、午前中は新町区の東側を中心に、回っていきます。

 新町区公民館で子供会と交流します。獅子の迫力に、子供の中には泣きながら逃げ回る子も多くいます。それでも、子供たちは、「頭を噛んで下さい。」とお願いに来ます。獅子に頭を噛んでもらうと、その年は病気や怪我をしないなどと言われており、新町の子供たちはそれを知っているのです。

 午後は、新町区の西側・南側を中心に回ります。日差しも強く、気温も上がり、さらに午前中の疲れもあるため、獅子はさらに過酷になっていきます。それでも担ぎ手たちは、声をあげ獅子を続けます。大きな声を出す、ということは、精神論のように聞こえるかもしれませんが、獅子をやる上では非常に重要です。声を出す、ということは即ち、気合を入れ緊張感を維持するということです。これだけ過酷な獅子ですから、緊張感が緩むことは事故や怪我につながりかねません。

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 夕方になると、いよいよ終りが近づいてきます。この頃になると、疲労を通り越し、かえってハイになっています。また、祇園祭を終えた子供会の子供たちの一部も合流します。新町区を恙なく回ると、最後に駅前にまで進出します。

 最後の休憩所である田中耳鼻科を出発し、祇園神社へと帰ります。敢えて一旦500号を渡り、歩道橋に上り東西に獅子を振ってから境内へと入ります。

 午前8時半頃に始まり、帰ってくるのは午後4時台。神殿で獅子を振り、獅子舞は完了します。 

 近年では、正月の午前0時過ぎから祇園神社の境内でも獅子舞いが行われ、希望する参拝者の健康を祈願して、頭を噛んでいます。新年が明けてから、参拝者の列が途切れるまで行っています。

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※赤線が獅子の行路、橙色の 〇 が休憩場所です。クリックで拡大します。

【図中にある吹き出し箇所の説明】

(1) ここにお住まいの方が新町獅子追いの創始者のご子孫だそうです。

(2) ここのお宅で昼食をとりました。

(3) ここで小学生と合流しました。ここにお住まいの方が今の獅子の顎を直してくださいました。

(4) ここは新町ではないのですが、獅子衣装を奉納してくださったのでまわりました。

(5) 小郡駅前の噴水際で、4つの獅子頭を四方へ向けます。

(6) この交差点では、四隅の八百屋をまわります。

(7) この歩道橋上で、東西へ向けて獅子を振ります。

(8) 最後は出発地である祇園神社へ戻ります。

※ 図中のカメラマークと同じ数字をクリックすると、その場所で撮影された写真を見ることができます。

 今回の「新町 獅子舞」は『新町獅子舞保存会』の方にご執筆頂き、小郡市の歴史を守る会が編集いたしました。ご協力いただき感謝いたします。

<参考> 小郡市史第3巻より

■祇園神社(正式名素戔嗚<すさのお>神社)

 祭神は素戔嗚尊

 創建は1353年(正平8、文和2)

 御井郡府中(御井町)の祇園社より分霊勧請された。のち領主筑紫上野介広門の家臣、弓削大蔵大夫が神田三段を寄進した。1586年(天正14)島津勢のため兵火にかかり社殿・社宝・古文書等が焼失した。社領は秀吉の九州征伐の折に没収された。1637年(寛永13)に拝殿は再興され今日に及んでいる。当社は疫病を除く神として近郷から崇拝信仰された。

※南北朝時代には年号が「南朝年号」と「北朝年号」の両方あるので、年号に関しては「(南朝年号・北朝年号)」と並べて記述しています。

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【新町獅子舞保存会への参加】
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連絡先:NPO小郡市の歴史を守る会 
    担当者(淺川) 0942-80-1920
(担当者が新町獅子舞保存会の代表者にお話をお伝えいたします。)