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乙隈境石

<乙隈境石のある所はどんな場所だったの?>

 

 薩摩街道を北上し乙隈区の端まで来ると写真の石碑群が立っています。この石碑群は街道横に石垣で囲まれた土台の上に、大きな四角の御影石で作られています。

 ここは江戸時代の筑前・筑後の国境でした。境石は共に文政年間に建てられました。薩摩街道は参勤交代道で人馬の往来も盛んでした。

  ※文政年間(1818~1829)

<見所>

①    二つ並ぶ巨大な境界石

 薩摩街道沿いの筑後・筑前両国の境(現在の小郡市・筑紫野市の市境)には、大きな石碑がふたつ建てられています。

 小郡市側の碑を乙隈境石、筑紫野市側を馬市境石といいます。

 小郡市側のものは久留米藩士である佐田修平(さた しゅうへい)の文字で「従是南筑後國」、筑紫野市側のものは福岡藩の書家である二川相近(ふたがわ すけちか)の文字で「従是北筑前國」と書かれています。

 薩摩街道は参勤交代道であったため、一般の旅人たちだけでなく、島津家や柳川の立花家と言った九州でも主だった大名たちが通過していました。そのために、単純に国境を示すだけではなく、藩のメンツをかけて見劣りしないものを建てる必要があったのだろうと推測できます。後から作った筑後側の国境石が、筑前側に比べて微妙に大きく、また綺麗にそろえた石材を使用していることからも、境界を接する大名同士の対抗意識がうかがえます。

 小郡市教育委員会が平成17年(2005)に行った測定によれば、乙隈境石は棹石部分が約49cm角で、全体の高さが道から約4.06mであったそうです。

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地図①

② 大榎と石造物

 この大木も国境を示しており、筑後側には榎が植えられています。筑前側にも松が植えられていたそうですが、台風で倒れ腐ってしまったそうです。大榎はいつ頃に植えられたものなのか不明ですが、根元に石祠を取り込んでいることからかなりの老木だと考えられます。(令和3年5月時点で榎は伐られています。)

 石造物の詳細は不明です。近隣の方に話を聞くと大榎と石造物は馬市の天満宮の所有であり、石造物は「ガランさん」と呼ばれ、馬市(筑紫野市)の人々によってお祀りされているそうです。

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地図は①と同じ

<解説>

 嘉永3年(1850)に、ここを通過した吉田松陰は、「筑後筑前の大石柱」として記録に残している。その大きさが印象的だったことが推測される。この境石は文政年間に建てられた。現在の境石に建て替えられて不要になった境石は、現在、小郡市埋蔵文化財調査センター敷地内に建てられている。

 ガランさんは、その名称からして社寺に関係ある民間信仰で、社寺の境内やその近くにあった石塔や石祠をさしていたようである。信仰の実態としては、簡素な石神が祀られ祭神や由緒についても不明で、時々供え物をする程度で特別な祭祀は行われていないものが多い。災厄除けの神として信仰されていたようである。また、寺院などが守護神として信仰していたものが、寺などが廃れたあとに石祠や石堂だけが残ったものもあると考えられる。 


※江戸時代の1818年から1830年まで。文政年間の江戸幕府の将軍は11代徳川家斉(いえなり)である。文政年間には文化年間に引き続き、江戸を中心に爛熟した町人文化が花開いた。



 
 
 
 
 
 

◇参考

小郡市内には、乙隈境石の他にも次のような境界標があります。

1.小郡下町県境標 

  大正8年ころに建てられたと考えられる石標。高さ約2.12m。

2.郡境石

 高さ約74cmの角柱で、平方(旧御井郡平方村)と古飯(旧御原郡古飯村)の境にある。正面に「北御原郡 従是北四百六間古飯村丁場 南御井郡」と刻まれ、左側面(北面)に「文政十二丑年 九月」と刻まれている。文政12年(1829)に設置されたものである。

 この郡境石よりほぼ西に鳥栖の朝日山が見える。郡境にはこのような標石が各所に建てられたと考えられる。しかし、この郡境石のようにその姿をとどめているものは少ない。
 この境石は、薩摩街道を往来する人に郡境を示す為に設置されたものである。

3.三国境石

 肥前、筑後、筑後の三国の境に文化2年(1805)建てられた。円柱形の花崗岩で出来ている。

▲郡境石 クリックすると拡大します

▲三国境石 クリックすると拡大します