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<松崎宿を見てみよう>
松崎藩の成立に伴い、参勤交代の道が横隈経由から松崎経由に変更となりました。延宝6年(1678)のことです。以来、松崎宿は徐々に整備され久留米藩の府中宿、羽犬塚宿と同様に駕籠・人足・馬が常時備えられていました。宿場には村と同様に庄屋、横目などの村役人がいました。また、街道筋の町並みを世話するものとして町別当がいました。
宿場の南北両端には構口という石垣が築かれています。構口を宿場の中へ向かうと、道が直角に曲がる枡形道の名残も見られます。宿場には大名などが泊まる御茶屋(本陣)や二十数軒の旅籠をはじめ、様々な商家が立ち並んでいました。
③旅籠油屋・中油屋
平成13年12月に市指定有形文化財となった建物です。正式名称を「旧松崎旅籠油屋 主屋(おもや)一棟 座敷一棟」といいます。地元では主屋を「油屋」、座敷を「中油屋」と呼んでいます。主屋には主として一般客を、座敷には身分の高い賓客を宿泊させていたと考えられ、脇本陣に準ずる内容と規模を備えていました。
「油屋」が建てられたのは江戸時代後期で、当時北部九州でも大型の旅籠建築であったと考えられています。造りは寄棟造草葺で、階高が高い2階建ての外観が特徴です。1階では荷馬が土間で荷の積み降ろしができるように天井を高く設けていました。
「中油屋」は小郡市教育委員会の調査により、嘉永2年(1849)と書かれた棟札が見つかっています。玄関の間・次の間・座敷の間の三室が、縦に並ぶ本格的座敷です。平成27年春に復原され公開されました。
「主屋」は平成27年(2015)から解体・調査が始まり、平成28年(2016)から復原工事が始まりました。平成31年(2019)3月23日に落成式が行われ江戸時代の姿に復原されました。
1階見取り図 小郡市教育委員会より借用
2階見取り図 小郡市教育委員会より借用
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④ 松崎宿歴史資料館
立石村松崎の大地主であった三原家の土蔵だった建物が、現在、松崎宿歴史資料館として利用されています。三原家は江戸時代より木蝋業を営んでいました。道を挟んで向かいにある松崎公園に三原本家の屋敷がありましたが、現在は九州湯布院民芸村へ「大庄屋屋敷」として移築されています。
松崎宿歴史資料館では、松崎や薩摩街道の歴史、油屋で使われていた当時の家財道具などを見ることができます。見学は事前に予約が必要です。連絡先は小郡市埋蔵文化財調査センター(電話0942-75-7555)、もしくは当NPO事務局(電話0942-80-1920)です。
<松崎宿の歴史>
松崎宿の歴史は、延宝6年(1678)に薩摩街道が天下道と定められたのに伴い、松崎の地が宿場町として整備されたのが始まりとされている。以来、参勤交代道路として薩摩藩(島津)、熊本藩(細川)、柳川藩(立花)等の九州の主だった大名がここを通過し、重要な宿場町として繁栄していった。
幕末慶応年間の資料によれば、松崎宿の総戸数は129軒で、大名や小名が宿泊する「御茶屋」・「脇本陣」を含めて「旅籠」が26軒あったという。旅籠以外には、「駅伝(継立)」を設けて物資・書状の運搬にあたったほか、旅人のための「立場茶屋」もあったといわれ、これに食料品や日常品を扱う商家も含めれば、当時の松崎宿がいかに賑わっていたか推測される。
旅籠油屋前に見学者用駐車場があります。