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光行土居

<光行土居を調べてみよう>

 光行土居は、中世の頃に築かれた土手のことです。現在でも光行区上浜や、平方区と光行区の境に残っています。元々はこの地域の治水対策として築かれた堤防でした。江戸時代に松崎藩が成立し、薩摩街道が参勤交代の道になりました。その時に、古賀茶屋から光行茶屋までの土居が薩摩街道として活用されました。

 ① 光行上浜・街道の桜並木

 光行土居は現在でも、光行上浜辺りから光行茶屋まで約300mにわたって残っています。土居のすぐ横を走る国道322号線は、大型トラックなどが行き交う交通量の非常に多い道路です。写真の土居部分は国道を幸いにもはずれました。
 現在は、幅約4mの舗装された土居の両側に桜が植えてあり、春になると薩摩街道を往く人の目を楽しませます。

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▲写真の場所 

② 光行茶屋の集落

 久留米市の八丁島から光行土居を往くと、光行に「茶屋」と呼ばれる字名があります。「茶屋」という名称ですが、現在、飲食店等の商店はありません。

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▲写真の場所

 

<①と②についての説明>

 江戸時代そのままの土居が残っています。参勤交代の行列がここを通っていたと想像するには最適な場所です。

 土居の北端から「茶屋」の集落が望めます。大正年代までは「茶屋」入口両側に十数本のエノキの大樹が枝を広げていて、その付近には7軒ほどのお茶屋があったといわれています。

▲かつての茶屋あたりの風景

写真:小郡市教育委員会提供

③ 光行区、平方区境の堤防

 古賀茶屋から光行茶屋の土居は薩摩街道として利用されていました。写真掲載の土居は、薩摩街道としては利用されなかったものの、光行茶屋から平方・光行の中心部へ続く字境に数100mにわたり残った土居です。
 かつては、大刀洗川・宝満川の逆流などから発生する洪水を防ぐために、光行から稲吉・下岩田に渡って2重に築かれていました。
現在、土居は地元の方によって、草刈清掃等が行われ、一部分は人が通れるようになっています。
※写真:小郡市教育委員会提供

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▲写真の場所

<③についての説明>

 中世から残ると考えられる土居に水門があります。場所は光行区、平方区の境です。その水門から南北両方に堤防は伸びています。歩いて行けるのは南側の土居になります。地元の方によって草刈清掃等が行われています。土居を歩くと周りの集落や田が見渡せます。尚、設置された年は不明です。

ちょっと休憩Smile

平方には地元の養蜂場さんが経営しているカフェ『cozy room』さんがあります。

街道めぐりに疲れたらお休みするのに最適ですWink

 
 

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▲写真の場所

 

<①と②についての歴史>

  延宝6年(1678)に久留米城下から筑前へ向かう街道が、従来の横隈経由から松崎経由に変更された。久留米市八丁島から光行茶屋までの土居上の道が旧街道である。現在、国道322号線として拡幅され面影はないものの、一里塚および光行茶屋のところにわずかに土居跡が残っている。『筑後秘鑑』においてこの地での出来事を伝えており、土居は既に中世のころには存在していたことが認められる。

※『筑後秘鑑』(ちくごひかがみ) 天和2年(1682)頃成立 著者氏名未詳


<③についての歴史> 

  かつては、大刀洗川・宝満川の逆流などから発生する洪水を防ぐために、光行から稲吉・下岩田に渡って2重に築かれていたという。