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旧赤松外科病院 北病棟

<旧赤松外科病院 北病棟ってどんな建物ですか?>

 

 薩摩街道を松崎方面から干潟集落に入ってすぐ左手に洋館が見えます。この洋館は現在でも医療活動を続けている「赤松医院」が外科病院だった時期(昭和初期~昭和61年末)に病棟として使用されていました。赤松家は江戸時代から続く薩摩街道で最も古い医療施設であると考えられます。農業が主体の干潟集落の家並にあって2階建ての洋館はたいへん印象的です。

 干潟集落に何故このような規模の病院があったのでしょうか?

注意

 ♦赤松医院は医療機関です。内容について電話で質問する事はお控えください

  (医療活動に支障をきたす恐れがあります)

 ♦診察に関係ない方の赤松医院内への立ち入りはご遠慮ください

 
 

①    赤松医院の旧北病棟 

(薩摩街道の南から北方面を望む)

 昭和5年に上棟されたモダンな建物。壁はモルタル吹き付け仕上げを施されています。この仕上げは大正末期から昭和初期に流行していた仕上げで「ドイツ壁」と言われるそうです。伝統的建築物の有識者によると、ドイツ壁は、鏝板(こていた)にモルタルを乗せて鏝板の上から壁に向かって竹を細かく裂いたササラで、モルタルを勢いよく掃き付けた独特のデザインである、とのことでした。

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②    旧北病棟 玄関

上棟されたのが昭和5年と古いので、建物に補強工事が行われています。このようなメンテナンスのお蔭で現状維持が可能になっているものと思われます。

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地図は①と同じです。

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赤松医院から徒歩3分くらいで割烹「とびうめ」があります。

 「とびうめ」は、平成24年7月23日付けで、小郡市登録有形文化財第1号となりました。登録されたのは、昭和30年代まで造り酒屋として使用されていた松岡家住宅の母屋と門1棟です。
 母屋は、一部2階建ての切妻瓦葺きで、面積は473㎡です。大正10年に建築に着手し、2年後に完成しました。ヒノキやカシなどをぜいたくに使用し、特に上がりかまちには、長さ約9mのケヤキの一枚板を用いています。

 門は薬医門(やくいもん)という型式で、使用されている鬼瓦には「嘉永三年」という幕末の年号が入っています。
 昭和20年3月の大刀洗空襲では爆撃の被害を受け、その傷跡は現在も残されています。

③    旧北病棟2階

 病室は北側に3室とバルコニー側に1室あります。北側の3室のガラス扉には西側から順に「一号室」(鏡文字)、「貮號室」、「参号室」(鏡文字)と書かれていました。廊下側から見て文字が鏡文字になってしまっているのは、改築した際に建築基準法に従って扉の開閉方向を変更したということでした。扉の付け根を確認してみると、確かに金具の位置をずらしたような跡が残っています。

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地図は①と同じです。

 赤松医院は、江戸時代より干潟で医療活動をなさっていたそうです。現院長の先々代、赤松琢磨氏は、戦時中、大刀洗にあった陸軍飛行場関係の嘱託医でした。当時は「赤松外科病院」と言って3棟の病棟や手術棟を持つ病院でした。当時としてはかなり大きな病院でした。今でも、門柱には大理石で出来た当時の表札が残っています。当時の「赤松外科病院」の配置図は図①になります。

図① クリックすると拡大します

 図①の北病棟が今回紹介している建物です。この建物は昭和5年(1930)11月に上棟されたものであることが解っています。今でもメンテナンスされており、大切に保存されています。

 戦時中は、地域の住民や大刀洗飛行場の陸軍関係の傷病兵でごったがえしたそうです。その様はまさに野戦病院のごときであったそうです。

 なお、昭和20年(1945)3月31日に赤松病院も空襲を受けて爆弾が落ちました。その場所は南病棟跡付近になるそうです。

 

<歴史>

【旧赤松外科病院について】

 戦前、集落の子供たちは盲腸の手術があるときなど、物珍しさから仲間と連れ立って手術室を覗きに行っていたという。戦時中、当時の病院長赤松琢磨氏は大刀洗航空廠、大刀洗陸軍飛行学校、大刀洗航空機製作所の嘱託医をしていた。その関係で毎日のように手術患者、外傷患者がいた。

 昭和20年(1945)3月27日の空襲で立石小学校の生徒が三軒屋付近に落ちた爆弾で負傷し、赤松病院で治療した。3月31日午前9時ごろに病院内にも爆弾が落ちた。いずれの爆撃でも亡くなった方がいる。