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松崎宿よもやま話 1~5話

松崎宿よもやま話 1話から5話を紹介。(途中からご覧になりたい場合は、下のリンクボタンをおしてください。)

1話 2話 3話 4話 5話

 


 

※本文の写真及びイラストは、画像をクリックして頂くと拡大してご覧いただけます。


松崎宿よもやま話 1話

 

稲妻   野田宇太郎

 わがふるさとは
 筑後松崎

 稲妻形にうらぶれた
 とほい昔の宿場町

 上町と下町の端れには
 野苺の白い花咲く
 御番所の石垣だけ がのこり

 歯の抜けた老人のやうな街並には
 プレハブ住宅も建っている

 その家から近くの新興の町工場へ
 自家用車を走らせる青年もいる

 みんな知らない顔だが
 だうやら夢ではないらしい

 わがふるさとは
 筑後松崎

 心の中に稲妻が走るときだけ
 よみがへる昔の宿場町

  この詩は昭和50年に出版された詩集『母の手鞠』(新生社)に掲載されたもので、小郡松崎の地で生まれ育った詩人 野田宇太郎が、故郷松崎のことを郷愁を込めて振り返った内容となっています。松崎を故郷に育っただけあって、この詩の中には松崎宿の特徴がごく自然な形で詠い込まれており、独自の詩情を醸し出しています。
 表題にも通じる「稲妻形」は、枡方を含む宿場町全体の形状を良く表してますし、「御番所の石垣」は宿場町の出入り口にあたる構口のことで、宿場時代の名残りを示すものです。また、「歯の抜けた老人のような街並」は、かつてあった宿場町の賑わいを思い起こさせ、こうした表現の一つ一つに野田宇太郎の故郷松崎に対する想いの深さを知ることができます。
 この松崎宿の歴史は、延宝六年(一六七八)に松崎街道が天下道と定められたのに伴い、松崎の地が宿場町として整備されたのが始まりとされています。
 以来、参勤交代道路として薩摩藩(島津)、熊本藩(細川)、柳川藩(立花)等の九州の主だった大名がここを通い、重要な宿場町として繁栄していったのです。
 幕末慶応年間の資料によれば、松崎宿の総戸数は一二九軒で、大名や小名が宿泊する「御茶屋」・「脇本陣」を含めて「旅籠」が二六軒あったといいます。
 旅籠以外には、「駅伝(継立)」を設けて物資・書状の運搬にあたったほか、旅人のための「立場茶屋」もあったといわれ、これに食料品や日常品を扱う商家も含めれば、当時の松崎宿のにぎわいがしのばれます。
 この「松崎宿よもやま話」では、新たに市指定有形文化財になった旧松崎旅籠油屋を中心に、松崎宿にまつわる様々なエピソードを紹介し、「ふるさと筑後松崎」に想いを馳せてみたいと思います。

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松崎宿よもやま話 2話 

◎宿場町の華"旅籠(はたご)

 江戸時代の宿場町には、旅人の休泊、人馬継立(旅人や物資の輸送)、飛脚(通信)業務という大きく三つの役割が与えられていました。中でも旅籠は、身分の上下にかかわらず休泊施設として宿場にはなくてはならないものでした。

 江戸時代も後期になると、庶民の中にも経済的なゆとりを持つ人が増え、特に十九世紀はじめの文化・文政期には、お宮参り等の庶民の旅が一段と盛んになりました。また、経済の発達とともに、流通も盛んになり、こうした社会の需要から旅籠の数も増えていったと考えられます。

天保期の東海道では、熱田神社と渡海場で栄えた宮宿の二八四軒が最多で、小田原宿で九十五軒、島田宿では四十八軒の旅籠がありました。少ないところでは、同じく東海道の石薬師宿の十五軒、中山道野尻宿の十九軒(十九世紀前半)のほか、奈良井宿にいたっては本陣・脇本陣をいれて七軒しかありませんでした。ただし、奈良井宿には塗物師四十四軒、檜物師九十九軒があったといわれ(十八世紀前半)、物産品作りの町としての色彩が強く、一口に宿場町といってもさまざまな特色を持つものがあったようです。

 松崎宿は本陣・脇本陣をいれて旅籠が二十六軒ですので、宿場町の規模としては比較的小さい部類に入ります。松崎宿の特色については、この連載が進む中で紹介したいと思いますが、まずは、市指定有形文化財の旧松崎旅籠油屋(以下油屋)を例に旅籠の内部の様子を見ていきましょう。

 

◎旅籠の内部(一階部分)

油屋は主屋と座敷の二つの建物から成り立っています(図1)。

 主屋には一般客が宿泊していたと考えられ、客室は主に二階が使用されました。客は、大戸(玄関)をくぐった1(以下図3)か、通りに面した2の場所で埃(ほこり)を払い、盥(たらい)にくまれた湯で足をすすいで二階の座敷へと上がっていきました。3と4は土間で、3は荷解(にほど)き、荷置き場として使用され、4は今で言う台所にあたります。5は通常、家人の居住部分等として使用されていたようです。

 座敷は三間続きの上質の部屋からなり、ここには武士等、身分の高い賓客を泊めていたと考えられます。西南戦争(一八七七)の際に、有栖川宮熾仁(ありすがわみやたるひと)親王を総督とする征討軍の一時的な陣営として油屋が使用されたのも、こうした上質の本格的座敷を備えていたためです。

 なお、この図には便所や風呂場がありませんが、これについては稿を改めてふれたいと思います。

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松崎宿よもやま話 3話

◎旅籠の風呂

 江戸時代の旅では、旅費をなるべく節約するためもあり、男の足で一日平均十里(四十キロメートル)は歩いていたといわれています。そのため、朝は未明・早朝からの出発となり、夕方は日が落ちて暗くなるまでには宿に着いていなければなりませんでした。

 さまざまな交通手段を利用した現代の旅行とは異なり、徒歩での旅は当時の人々にとっても結構な道のりだったようで、旅籠に着いてから入る風呂は、旅の疲れをいやす格別なものだったに違いありません。

 十九世紀初期に連載された「東海道中膝栗毛」の中で、主人公の北さんが旅籠の五右エ門風呂を踏み抜いて大騒ぎする話は有名ですが、元禄時代(十七世紀末)には既に旅籠に風呂が備わっているものが文献上で見られ、以降次第に普及していったと考えられます。

 

 

◎発掘で見つかった風呂と便所

 平成十二年度に旧松崎旅籠油屋の敷地内を発掘調査した際、主屋の裏側から五右エ門風呂と便所跡が見つかりました(図1・2)。風呂場と便所は、渡り廊下で主屋と続き(図3)、主屋に宿泊した一般客が使用したものと考えられます。

 風呂場は大正時代に作り替えられたものですが、礎石などの状況から、江戸時代からの配置を基本的に踏襲したものといえます。便所はかめを埋め込んだくみ取り式で、渡り廊下を突き当たった所が小便所、他が大便所となっています。

 また、座敷部分からもくみ取り便所が見つかっていますが、これは座敷に宿泊した賓客専用のものです。便所に隣接して専用の風呂も附随していた可能性があります。 

 

◎旅籠施設その他もろもろ

 その他の施設として、主屋の裏側から井戸が見つかっています。江戸時代の面影は完全に失われていましたが、風呂場と台所の中間にあたり、どちら側からでも利用しやすいようになっていました。

 また、渡り廊下に沿っては中庭が、座敷の玄関にいたる箇所には前庭がそれぞれ整備されていたと考えられます。賓客を泊める座敷の裏庭は最も大切にされ、「梅の花がきれいに咲誇る庭だった」という言い伝えが残っています。

 次号は、二階をご紹介します。

 

 

 江戸時代の旅では、旅費をなるべく節約するためもあり、男の足で一日平均十里(四十キロメートル)は歩いていたといわれています。そのため、朝は未明・早朝からの出発となり、夕方は日が落ちて暗くなるまでには宿に着いていなければなりませんでした。

 さまざまな交通手段を利用した現代の旅行とは異なり、徒歩での旅は当時の人々にとっても結構な道のりだったようで、旅籠に着いてから入る風呂は、旅の疲れをいやす格別なものだったに違いありません。

 

 十九世紀初期に連載された「東海道中膝栗毛」の中で、主人公の北さんが旅籠の五右エ門風呂を踏み抜いて大騒ぎする話は有名ですが、元禄時代(十七世紀末)には既に旅籠に風呂が備わっているものが文献上で見られ、以降次第に普及していったと考えられます。 

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松崎宿よもやま話 4話

◎幅一間の大階段

 油屋の主屋一階の中心には、二十二センチ四方の大黒柱がありますが、この大黒柱のすぐ脇に幅一間の大階段が設けられていました。通常、半間幅のものが多い中で、建物の大きさに合わせた大型の造りといえます。

 しかしこの大階段は、戦後油屋が芝居小屋として使用された際に取り払われてしまい、残念ながら現在は見ることができません。

 

◎広々とした二階の間取り

 図3は二階の間取りを示したものです。大階段には踊り場と廊下が続き、各部屋は大階段を中心に配置されていました。

 街道に面した部屋には、縁と手すりを設け、その外側に雨戸をたてていました。その他の部屋も、出格子窓を設けた明るく開放感のある部屋だったと思われます。

 広重の「木曾海道六拾九次之内 贄川」の浮世絵には、二階の手すりにもたれ、街道の往来を見下ろしながらタバコをくゆらせる宿泊客の姿が描かれていますが、ここ油屋でも同じような光景が見られたことでしょう。


◎“大旅籠”油屋

 ところで、二階部分の天井の高さは、床から天井板までが二一四センチあります。これは、「立てば天井に頭のつくような」高さしかなかった江戸時代の一般的な二階の造りからすると、建ちの高い部類に含まれます。

 異様に高い草葺き屋根の外観に加え、こうした広々とした二階や大階段の造り、そして賓客専用の座敷を備えている点等々、本陣・脇本陣には及ばないものの、まさに“大旅籠”と呼ぶにふさわしいスケールの大きさを感じさせます。 

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松崎宿よもやま話 5話
 

◎江戸時代の看板

江戸時代の風俗を記録した「守貞謾稿(もりさだまんこう)」という本の中に、看板についてこう記されています。

 「招牌(しょうはい)、俗にかんばんと云ふ。看板なり。しかれば、板を用ふを本とするなり。今世も三都(江戸・京・大阪)とも板を用ふもの多く、板は槻(けやき)を専らとし、墨書あるひは文字を彫りて墨漆、あるいは金箔押もあり。〈中略〉大小長短、さらに定めなし。皆上に鉄具ありて、これを釣るなり。」

 これは一般的な板看板について述べたもので、この他に、衝立(ついたて)の形をした置看板、障子張りの箱に文字を書いた箱看板があり、のぼり・旗・あんどん・のれんなども看板の役割を果たしていました。

 

◎油屋の板看板

 油屋にはさまざまな品物が大切に保管されていましたが、その中から江戸時代の看板も見つかっています。

 看板の種類は板看板で、大きさは長さ九十八cm、幅三十六cm、厚さ二、二cmあります。材質は槻あるいは楠(くすのき)で、重さは五、一kgもあります。

 看板の両面にはそれぞれ字体を変えて「諸国御宿油屋喜平(きへい)」(図1・2)とあります。屋号の油屋は当然のことですが、ここでは亭主「喜平」の名前も記されていました。

 字は丁寧に彫られ、書き順や筆の勢いも忠実に表現されており、彫り込んだ後に漆で下塗りをし、最後に白緑(びゃくろく)の塗料を塗って仕上げられています。看板の縁取りには「渦」と「若葉」を表す絵様(えよう)が施され、黒漆の上に金箔を張ってアクセントを付けています。その他の部分はニスのような透明漆が塗られ、図3に復元したように、遠くからでも字のはっきり見える、メリハリの効いた看板だったことがわかります。

 

◎看板を外して「今日は看板」

 復元図にもあるように、看板の上と横にも金具が取り付けられ、恐らく玄関(大戸)近くの軒下に釣り下げられたと考えられます。

 現代の看板のほとんどが外に備え付けたままですが、江戸時代には店の開け閉めとともに看板を出したりしまったりしていました。一日の営業を終えて閉店することを「看板」と言うのもここから来ています。

 

 油屋の亭主の名前が出てきたので、次号では「喜平」について触れてみたいと思います。

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