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松崎宿よもやま話 11~15話

松崎宿よもやま話 11話から15話を紹介。(途中からご覧になりたい場合は、下のリンクボタンをおしてください。)

11話 12話 13話 14話 15話

 


 

※本文の写真及びイラストは、画像をクリックして頂くと拡大してご覧いただけます。


松崎宿よもやま話 11話

 油屋に伝わる民具紹介の二回目です。

◎帳場(ちょうば)まわりの古道具
 図1は帳場まわりの様子を復元したものです。文机(ふみづくえ)の脚には独特の文様が彫り込まれ、これと同じ脚をもつ机の絵が江戸時代の書籍にも見られます。机の上には硯(すずり)や算盤(そろばん)が置かれており、油屋の亭主はここに座って売り上げ等の記録を大福帳(だいふくちょう)に書き込んだと思われます。
 油屋には残っていませんでしたが、机まわりの三方を囲う帳場格子(ちょうばごうし)を置いて、特別な場所であることを示していました。

 

◎明治の大福帳
 文机の上や横に置いてある冊子は、いわゆる大福帳で、収入や支出の記録を書き付けたものです。
 ここで紹介しているのは明治の亭主喜八(きはち)のもので、「萬日記帳(よろずにっきちょう)」「賄控簿(まかないひかえぼ)」といった表題が見られます。
 前者は主に家人に関する出費を記録したもので、中には喜八の甥が師範学校に入学した際に贈ったお祝等も記録されていました。
 後者は油屋で世話をした宴会や食事に関する売り上げを記録したもので、「三円三拾六銭 賄五拾六人」「七銭弐厘 酒四合」「拾三銭 カニ一鉢」等とあり、当時の物価を知る貴重な記録でもあります。

 

 

◎家人が使用した民具

 図2は家人が使用した日常生活品です。宿泊客に対して使用する道具とは異なり、質素なしつらえとなっています。

 この中で、切溜(きりだめ)とあるのは、大小の蓋付きの木箱を入子(いれご)に収納できるもので、祝い物等を入れるのに使用し、地域によってさまざまな呼び名があります。

 欄引(らんびき)は焼酎を蒸留する道具です。昔は、焼酎は飲むだけでなく、薬としても使用されていたようです。江戸時代の旅の心得を記した「旅行用心集」にも、足疲れ対策として「風呂へ入りて後、焼酎を足の三里より下、足のうら迄吹付べし」と書かれています。

 その他には、川で魚を取った投網(とあみ)などの漁具が多く残されていました。

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松崎宿よもやま話 12話

 

yo12.jpg平成十五年一月二十六日(日)、小郡市文化会館小ホールにて特別展記念講演会「旅籠油屋と江戸の旅」が開催されました。講師に富山大学教授の深井甚三(ふかいじんぞう)先生を招き、松崎宿や旅籠油屋についてさまざまな話をしていただきましたので、その中からいくつか要点を紹介します。

 ◎四つの著明な宿「油屋」
 講演の冒頭には、全国的に知られている四つの「油屋」の紹介がありました。一つは、皆さんもご存じの宮崎駿アニメ「千と千尋の神隠し」の舞台となった神様湯治宿(とうじやど)「油屋」です。二つ目は、中山道追分(おいわけ)宿(軽井沢)の脇本陣(わきほんじん)「油屋」です川端康成(かわばたやすなり)を始めとする著明な作家たちが定宿にしていたことで文学界では有名ですが、残念ながら戦前に消失してしまいました。三つ目は岡山県にある「元禄旅籠屋油屋」という温泉宿で、江戸時代の建築を利用しています。
 そして四つ目が松崎宿の旅籠油屋です。旅籠として大変立派なもので、全国的に見てもこうした旅籠建築はなかなか残されていないのが現状だということでした。

 

◎松崎宿の特色
 幕末の松崎宿には百二十九軒中二十六軒の旅籠がありましたが、旅籠の数としては中山道並みで(東海道では平均五十五軒)、旅籠の割合が高いのが特徴だそうです。
 また、松崎宿では本陣のことを御茶屋(おちゃや)と呼びますが、これは藩主(松崎宿の場合は有馬の殿様)専用の休憩宿泊施設である御茶屋に、参勤交代で行き交う諸大名を休泊させたためで、一般的には本陣は別に設けて御茶屋を他の大名が利用することはなかったそうです。大名の往来が五街道ほど多くなかった薩摩街道にあっては、御茶屋と本陣を兼ねさせることにより、設備・運営費を軽減させていた実態が指摘されました。

 

◎松崎宿の特色

yo12-2.jpg 幕末の松崎宿には百二十九軒中二十六軒の旅籠がありましたが、旅籠の数としては中山道並みで(東海道では平均五十五軒)、旅籠の割合が高いのが特徴だそうです。

 また、松崎宿では本陣のことを御茶屋(おちゃや)と呼びますが、これは藩主(松崎宿の場合は有馬の殿様)専用の休憩宿泊施設である御茶屋に、参勤交代で行き交う諸大名を休泊させたためで、一般的には本陣は別に設けて御茶屋を他の大名が利用することはなかったそうです。大名の往来が五街道ほど多くなかった薩摩街道にあっては、御茶屋と本陣を兼ねさせることにより、設備・運営費を軽減させていた実態が指摘されました。

 

◎旅籠油屋は脇本陣?

 ところで、御茶屋に次ぐ施設として脇本陣があります。松崎宿では大坂屋(おおさかや)が脇本陣だったといわれていますが、その実態は分かっていません。

 深井先生は、先に紹介した追分宿の脇本陣油屋を始めとする各地の脇本陣を紹介しながら、以下の特徴を整理されました。

 1.専用の門構えを設ける

 2.式台(しきだい)玄関を持つ座敷を備える

 3.座敷に上段の間を設ける

 4.通常は一般の旅籠と同じ経営

 

 1~3は武家のみに許される建築様式で、庶民が勝手に造ることは許されませんでした。脇本陣の場合、藩の許可を受けて、貴人や家老級の武士を休泊させる専用の座敷を設けたと考えられるそうです。

 よもやま話其の二・三でも紹介したように、油屋には1・2を備えた座敷があり、4の一般客は主屋に宿泊させていたことが明らかとなっています。3の上段の間は油屋にはありませんが、必要とされる時だけ上段にする工夫があった可能性もあり、油屋が脇本陣並みの設備を備えた旅籠であることを指摘されました。

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松崎宿よもやま話 13話

◎西郷隆盛使用の盃(さかずき)

 旅籠油屋に伝わる漆器の中に、朱塗りで五段重ねの盃があります(図1)。

器の口の直径は、大きいものが二十cm、小さいものが十四cmあります。内側には沈金(ちんきん)という技法で、「松竹梅」と「鶴亀」のおめでたい絵柄が彫られています。沈金は、漆器の表面を彫って、そこに金箔や金粉などを埋め込んで模様を表現する技法で、油屋の漆器の中では比較的上等な部類に入ります。

 この盃は、西郷隆盛が油屋に泊まった際に、これでお酒を飲んだという伝承にまつわるもので、代々大切に伝えられてきたそうです。

 

◎西郷隆盛と油屋

 油屋には、これ以外にも西郷隆盛が宿泊したという次のような話が伝わっています。

 西郷が油屋に宿泊した際に、階段を上がって二階に行こうとしたところ、後ろから犬が一緒に付いて来て階段を登ろうとしたため、西郷が「お前も客と思っているのか」と大笑いした、というもので、その人柄をよく表したエピソードとなっています。また、泊まったのは二階の北東隅の部屋(現存せず)だったという伝承もあります。

 西郷隆盛は日記を付けていなかったため、細かな行動は明らかではありませんが、太宰府天満宮の「松屋」という旅籠には西郷が宿泊した記録があるほか、参勤交代で島津斉彬(しまずなりあきら)に伴って薩摩街道を行き来していますので、その可能性について検証してみる必要があるでしょう。

 

◎薩摩藩の参勤交代

 薩摩藩(島津)の参勤交代としては、1.薩摩藩の軍港である阿久根(あくね)港から船で長崎沖を通って下関へ抜けるコース、2.日向灘の細島(ほそしま)港から船で瀬戸内海へ抜けるコース、3.陸路で小倉まで行きそこから船で瀬戸内海へ抜けるコースがありました(図2)。江戸時代も後期になると、3.の陸路が主に使われるようになります。

 西郷隆盛が初めて江戸に行ったのは、島津斉彬の二度目の参勤交代にあたり、安政元年(一八五四)のことです。

 島津斉彬の側近の山田為正が記した日記によると、一月二十一日に鹿児島を出発し、三月六日には江戸へ到着しています。この内、二月一日の記事には、「瀬高午前七時御発 羽犬塚小休止 府中久留米御茶屋御立場 松崎久留米侯御茶屋へ午後四時頃御着」(時間は現代時刻に訳)とあり、西郷が松崎に来たのは確実だと思われます。ただし、翌日二月二日の記事には「朝午前三時頃山家(やまえ)を御発」と記されているため、実際に松崎に宿泊したかははっきりしません。

 西郷隆盛は参勤交代以外にも、幕末の志士活動の中で何度も江戸・京都?鹿児島間を往復していますので、そのどこかで松崎の油屋に泊まった可能性は十分にあると思われます。

※参考文献 『出水の旅物語』出水市教育委員会、『黎明館常設展示解説図録』鹿児島県歴史資料センター黎明館

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松崎宿よもやま話 14話

◎松崎宿の字図

 これまでの号では旅籠油屋について紹介してきましたが、ここからは松崎宿全体の紹介に移りたいと思います。

 図1は、明治二十年に描かれた松崎宿の字図(あざず)で、現在御茶屋(おちゃや)跡に住んでおられる福永さんの家に伝わっていたものです。現存する松崎宿に関する絵図面としては最も古いもので、ここから江戸時代の宿場の様子を探ってみましょう。

 

◎稲妻形(いなづまがた)に曲がる道路

 まず目を引くのは、宿場内を通る道の形状で、松崎出身の詩人野田宇太郎は「稲妻」という言い回しでこれを表現しています。

 道路が直角に折れ曲がった個所を「枡形(ますがた)」といって、外から攻め込んでくる敵方をここで防ぐ機能を持たせていたと考えられています。宿場町とはいっても、城郭に準じた構造がとられていて、特に北側の枡形は三重に折れ曲がり、厳重な造りとなっています。

 松崎宿の場合、寛文八年(一六八八)に分知を受けた松崎藩とその陣屋の成立に伴って宿場町が整備されたこと、さらに松崎宿が久留米藩領内に入って最初の宿場町(端宿(はじゅく))となることが、こうした念入りな構造を取らせた要因だと考えられます。

 

◎宿場を取り囲んでいた藪

 幕末慶応二年の文献には、松崎宿には一二九軒の家があったと記されています。道路に面して宅地が並んでいますが、いずれも間口が狭く取られているのが特徴です。これは、当時の家屋に対する地租が間口の広さで決められたため、間口を狭く取って奥に長い敷地となっています。

 宅地の外側には藪があり、藪がつながって宿場町全体をぐるりと取り囲んでいる状況がわかります。防御的に地の利を生かせない平野部の宿場町では、藪で全体を取り囲ませることにより、道路以外からの敵方の進入を防ぐ意味を持たせていたと考えられています。

 江戸時代の松崎宿では、稲妻形の道路に沿って藁葺(わらぶ)きの家並みが続き、その外側を藪が取り囲んでいる情景があったことがわかります。

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松崎宿よもやま話 15話

◎宿場の出入り口「構口(かまえぐち)」

 松崎宿の南北両端、宿場町の出入口部分には、「構口」(地元ではかめぐち)と呼ばれる石垣が道の両脇に築かれています。北側を北構口(図1)、南側を南構口(図2)といい、どちらも市の指定有形文化財に指定されています。石垣の大きさは、最も残りの良い南構口で、道に面した幅三・八m、奥行き四・二五m、高さ一・九mを測ります。

 

元祖構口「高輪大木戸(たかなわおおきど)」

 今回はこの構口について探っていきたいと思います。

 東京都港区高輪には、「高輪大木戸」と呼ばれる幅五・四m、奥行き七・三m、高さ三・六mの石垣が残されています。これは構口と基本的に同様の構造で、江戸の南入口部分にあたる東海道の両脇に、 十八世紀前半ごろに築造されたものです。

 築造当初は石垣には大木戸が付設されており(道幅は約十m)、夜は通行止めにして江戸の治安維持と交通規制の機能を果たしていましたが、江戸時代後期には木戸の設備は廃止されたため、道の両脇に石垣がある形状だけが残されました。

 


◎各地の「(見付","みつけ)」

 図3は風景浮世絵師として有名な歌川広重が描いた東海道藤川(ふじかわ)宿(愛知県岡崎市)の浮世絵から引用したものです。東海道周辺では構口のことを「見付」と呼んでいて、東海道ではここ以外にも、丸子(まりこ)宿・赤坂(あかさか)宿・石部(いしべ)宿・関(せき)宿等に、中山道では乗場(のりば)宿・垂井(たるい)宿に見付が描かれています。

 見付とは本来見張所を指す言葉で、高輪大木戸と同様に、見付を設けることで宿場町の防御や治安維持の拠点としたのでしょう。

 薩摩街道筋の松崎宿でも、中央のこうした宿場町の整備のやり方にならって、久留米藩が構口として採用したものだと考えられます。

 

yo15-2.jpg◎「構口」周辺の様子 

 図3により、江戸時代当時の様子を振り返ってみましょう。

 構口の横に杭が立っていますが、これは傍示杭(ぼうじぐい)といい、ここから宿場町が始まることを示しています。宿場はずれのことを「棒鼻(ぼうばな)」というのはこれに由来しています。

 画面手前側には「高札場(こうさつば)」が描かれています。幕府や藩の決め事などをここで告示していましたが、松崎宿の場合、高札場の場所については、はっきりわかっていません。

 構口でしゃがんでいる右側二人は宿場町の役人で、これからやって来る大名一行を構口で出迎え、宿内に案内するところです。

 こうした構口や見付は、道路拡張工事や開発によりそのほとんどが失われていますが、南北四つすべての石垣が残っている松崎宿は、全国的にみても大変貴重な存在といえます。

 

 

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