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松崎宿よもやま話 26~30話

松崎宿よもやま話 26話から30話を紹介。(途中からご覧になりたい場合は、下のリンクボタンをおしてください。)

26話 27話 28話 29話 30話

 


 

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松崎宿よもやま話 26話

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◎街道のオアシス「立場茶屋(たてばちゃや)」
 街道の宿場と宿場の間にあって、駕籠(かご)や馬を止め、人足や旅人が休息するための場所を立場といい、多くの場合ここに茶屋が設けられました。立場茶屋ではお茶やお酒のほか、食事を出す所もあったため、休憩や昼食に大いに利用されました。
「東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)」では、弥次さん喜多さんがたびたび立場茶屋で休憩する場面が出てきます。注文したのはいいものの、水で割ったお酒や腐った焼き魚が出されたりと、中には質の悪い茶屋もあったようです。一方では、「焼き蛤(はまぐり)」といった各地の名物に舌鼓(したつづみ)を打つ場面も描かれており、旅人にとっては旅を楽しむ上で欠くことのできない存在だったといえます。

◎立場茶屋のあった場所
図1では、松崎宿周辺にあった立場茶屋を●印で示しています。 この内、古飯(ふるえ)町は街道筋にある在郷町(ざいごうまち)が立場茶屋の役割を果たしていたもので、かつては高良山参りや各地の祭りに出かける人出で賑わったとのことです。 干潟の集落内を通る街道筋は、今でも下茶屋・茶屋・上茶屋・新茶屋の呼び名が残り、立場茶屋だったころの名残をとどめています。 光行茶屋(みつゆきぢゃや)と古賀茶屋(こがんちゃや)(久留米市)は立場茶屋の跡がそのまま地名として残っているもので、光行茶屋には目印として榎が植えられていたことは前号で紹介しました。

◎立場茶屋に関する記録
これら立場茶屋については、旅人が道中で記した旅日記にもいくつか記述が見られます。
高木善助という薩摩産の紙を商っていた人は「此辺三つびき(光行)とて同じく立場なり。是(このあたり)をすぎて野道をゆく。古江村(古飯町)あり。立場なり。」と記述する一方で、古賀茶屋については「此橋をすぎ堤に上れば、古賀の茶屋なり。焼餅を売家(うるいえ)四五軒あり、立場なり。」と焼餅が名物だったことを紹介しています。
近隣では、長崎街道の冷水(ひやみず)峠「白おこわ」、原田宿「はらふと餅(腹太餅)」が良く知られていますが、松崎宿近辺では、江戸時代には一体どんな名物・名産品があったのでしょうか。さしずめ現代の小郡だったら、「七夕餅」とか「鴨めし」とかになるのかもしれません。

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松崎宿よもやま話 27話

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◎移築された国境石
 図1は埋文センターの敷地内に建つ「従是南筑後領(これよりみなみちくごりょう)」の銘を持つ国境石です。大きさは、一辺の幅が三十cmで、高さは二・一四mあります。
 実はこれ、もともと小郡市乙隈と筑紫野市西小田の市境、江戸時代でいうと薩摩街道筋の筑後国(久留米藩)と筑前国(福岡藩)の国境部分にあったものです。
 「国」を表すのに「領」を使うのは比較的古い表現で、前号でも紹介した高木善助さんの旅日記にも、文政十二年(一八二九)の記述に「七つ時山家宿を出て壱里計(いちりばか)りにて北筑前領・南筑後領の標石あり。」とあります。

◎巨大化した国境石
 図2は現在の国境石です。左側の筑後国境石で道からの高さが約四・四m、石柱の幅が四十九もあり、移築された国境石に較べてかなり巨大化しています。
 嘉永(かえい)三年(一八五〇)にここを通過した長州の吉田松陰は、「松崎駅を過キ、音熊(おとぐま)ト云所ニ至リ、午餐ヲ伝フ。行事少許、筑後・筑前の境大石柱ヲ樹ツ。」という記録を残していて、この頃にはどちらの国境石も建て替えられていたことがわかります。

◎意地の張り合い
 この筑後と筑前国境石には、次のようなおもしろい言い伝えがあります。
 「はじめは二つの国境石は同じ大きさで並んでいたのが、筑前側が大きく立派なものに建て替えたために、筑後側の国境石が見劣りする様になってしまった。そのため、今度は筑後側が建て替えをして、二つの大きな国境石が並ぶようになった。」というものです。
 これまで紹介してきたように、ここの薩摩街道は参勤交代道路でもあったため、一般の旅人たちだけでなく、薩摩の島津家や柳川の立花家といった九州でも主だつ大名たちがここを通過していきました。そのため、単純に国境を示すだけでなく、それぞれ藩の体面をかけて見劣りしないものを建てる必要があったのでしょう。
 図3と4は両国境石を調査した時の写真ですが、見た目は同じような国境石でも内部の構造は全く異なることが明らかになっています。また、最終的に建て替えを行った筑後側の国境石が、筑前側に較べて微妙に大きく、またきれいに揃えた石材を使用していることからも、境界を接する外様大名同士の対抗意識をうかがうことができます。

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松崎宿よもやま話 28話

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◎距離を示す道標「一里塚」
 図1は広重の浮世絵の中に描かれた一里塚の様子です。
街道の両側に塚を築き、塚の上には榎などの樹木を植えて目印としました。一里塚はその名の通り、一里(約四km)ごとに設置され、街道を行き交う旅人たちは、これを見て距離をはかり、馬や駕籠の料金の目安にしたといわれます。
一里塚が全国的に整備されたのは、十七世紀初頭の徳川二代将軍秀忠のころといわれ、江戸の日本橋を起点に、東海道や中山道といった主要街道にまず一里塚が整備されていったのです。

◎松崎宿近辺の一里塚
 地方の脇街道も、こうした五街道の整備にならい、順次一里塚を設けていったと思われます。
十七世紀代には、松崎周辺の薩摩街道沿いでも一里塚が整備されていた記録が散見されますが、寛延三年(一七五〇)の久留米藩の記録には、「三井郡往還筋一里塚建 八丁島之内光行一里塚より乙隈村御境石迄の間一里塚出来」とあり、このころまで整備が継続されていたことがわかります。
ちなみに、久留米藩の場合、一里塚は久留米城下を起点に設定されていました。
図2?4は、干潟・下岩田・光行に設置された現在の一里塚跡の様子です。こうした地方街道では、五街道の一里塚とは異なり、維持管理が十分に行き届かなかったといわれ、いつしか原形が失われていきました。ここに紹介した一里塚でも、昭和中頃までは榎が残っていたともいわれますが、今はそれも無く、記念碑がその名残をかろうじて留めています。
一里塚は広重の浮世絵にもあまり描かれていませんが、街道筋のありふれた風景だったが故に、人々の記憶に残ることなく、次第に姿を消していったのでしょうか。

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松崎宿よもやま話 29話

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◎霊鷲寺の「下馬石」
 松崎宿から北へ五百m程行った薩摩街道筋に霊鷲寺というお寺がありますが、図1はその参道入り口に建つ下馬石です。
 実はこの下馬石にまつわる話として、「往年参勤交代のためこの地を通過した九州諸大名や旗本等は、皆ことごとく駕籠を降り馬を下り槍を伏せ拝跪(はいき)して通過したと云う」といった伝承があります。「拝跪」とは文字通りに訳せば、ひざまずいて拝むという意味になりますので、これが事実だとすれば、大名や旗本たちが相当な礼を霊鷲寺に対して払っていたことになります。

◎本堂にある四つの家紋
霊鷲寺はもともと三潴郡西牟田(現在の筑後市)にあったお寺で、鎌倉末期の乾元元年(一三〇二)に後二条天皇が西牟田家綱に命じて創建させたのが始まりです。
その後、数々の戦乱に巻き込まれながらも勅願寺(ちょくがんじ)・臨済宗(りんざいしゅう)本山としての寺格を保っていましたが、十七世紀後半に久留米藩の分藩である松崎藩が成立した際に、その菩提寺としてこの地へ移されてきたものです。 図3は本堂の内部を撮影したものですが、須弥檀の上側に四つの家紋が並んでいます。左から「左三つ巴(みつどもえ)=有馬家」「桐(きり)=皇室」「菊=天皇」「葵(あおい)=徳川家」となっています。有馬家が勅願寺を移したのですから「左三つ巴」「桐」「菊」があるのは当然としても、「葵の御紋」まであるのはなぜでしょうか。
 住職のお話では「勅願寺でもある霊鷲寺の移設に際しては、江戸幕府の骨折りに頼らざるを得ず、徳川家の先霊(せんれい)を併せ祀(まつ)ることになったのでは」とのことでした。冒頭で紹介した諸大名たちが拝跪せざるを得なかったのは、案外このあたりに原因があったのかもしれません。
 幕末になりますと、すっかり幕威(ばくい)も衰えてしまったため、参勤交代の諸大名たちも拝跪まではしなくなり、型通りの礼だけをして通過していったといいます。

◎霊鷲寺は守りの要?
図4は境内に残る内堀(うちほり)です。堀は一辺九十m四方、幅四m程で、内側には土塁の痕跡もあり、深さが二mを越えるところもあります。さらに外側には外堀(そとほり)もあったといいます。
 松崎宿が国境の宿場町にあたるため、構口(かまえぐち)や枡形(ますがた)道路などの防御構造が念入りに造られたことは以前紹介しましたが、霊鷲寺はそのさらに外側(北側)の守りとして想定されていたという考え方があります。
織田信長が本能寺を京における居館として城塞化していたように、戦国期?江戸初期にかけては、寺院は城に準ずるものとしての考え方がありますので、今後はこうした観点からの検証も必要となるでしょう。

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松崎宿よもやま話 30話

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この号では、薩摩街道沿いに残る江戸時代の遺構を、南へ向かっていくつか点描していきます。

◎薩摩街道の道幅(みちはば)
 図1は霊鷲寺から南へ下る現在の薩摩街道の様子です。道幅三m程で、これまで拡幅もされずに街道本来の形状を今に残しています。
久留米藩領内の主要道路は「往還(おうかん)」と「小道」に大別され、薩摩街道は往還の扱いとなります。正徳四年(一七一四)に定められた掟書(おきてがき)には「隣国往還の道幅は前々より相定めの通りなるべし。そのほかは一切(いっさい)道幅三尺(九十cm)に限るべし」とあり、往還そのものの道幅は記されていませんが、道の規模が必要以上に大きくならないよう規制されていたことがわかります。
これは田畑をより多く確保する意図もありましたが、街道の交通・運搬手段が人足(にんそく)と馬が中心で、荷車(大八車・牛車など)の導入が積極的に行われなかったことにもよります。荷車が全国の街道へ普及したのは、交通量が飛躍的に増大した幕末以降のことといわれています。

◎高松凌雲(りょううん)の生家跡
 図2は古飯にある高松凌雲の生誕記念碑です。
凌雲は天保七年(一八三六)に古飯(ふるえ)の庄屋(しょうや)高松家の三男としてこの地に生まれ、成人するに及んで医学を志し、十五代将軍徳川慶喜の奥詰(おくづめ)医師を務めるにまでなりました。戊辰(ぼしん)戦争(一八六八?六九)の際には、敵味方の別なく傷病兵千三百余人の治療にあたり、日本における赤十字活動の先駆けとして特筆されます。
医学の道を目指して江戸へ向かうのは凌雲が二十四歳の時ですが、どのような思いを胸に薩摩街道を上って行ったのでしょうか。

◎平方の郡境石(ぐんさかいいし)
図3は平方にある郡境石で、御井郡と御原郡の境(当時)を示しています。
境石は文政十二年(一八二九)の設置で、一辺が三十一cm、高さが七十六cm程の石柱に「北御原郡 従是北四百六間 古飯村丁場 南御井郡」の文字が刻まれています。丁場とはこの場合、宿場や街道筋にある馬方や駕篭かきのたまり場のことを指しています。
 以前、古飯村が宿場間の立場茶屋だったことを紹介しましたが、旅人たちだけでなく、駕篭かき人足や馬方たちも古飯村でほっと一息ついたことでしょう。郡境石から南へ三?qほどで光行土居へと行きあたります。

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◎光行土居(みつゆきどい)と大洪水
 光行土居は本来、宝満川や大刀洗川などの氾濫(はんらん)に備えた土手で、薩摩街道の設置に伴い、街道として利用されたものと考えられます。
 石原家記(いしはらかき)という古文書には、宝暦(ほうれき)五年(一七五五)六月五日から六日にかけて、水かさが「光行土手の上壱尺(いっしゃく)、所により弐尺(にしゃく)」に達し、折しも殿様が「御着城」の時だったため、「公役馬(くえきうま)此土手に在(あり)、三百疋(びき)程夜明かしいたし候由」と、参勤交代帰りで動員された大勢の人馬が洪水のため、光行土居の上で立ち往生していた様子が描かれています。
光行土居には大正ごろまで十数本の榎の大樹があったといいますが、今はそれも無く、光行一里塚の記念碑と土手の跡が当時の面影をかろうじて残し、往時をしのばせてくれます

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