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松崎宿よもやま話 6~10話

松崎宿よもやま話 6話から10話を紹介。(途中からご覧になりたい場合は、下のリンクボタンをおしてください。)

6話 7話 8話 9話 10話

 


 

※本文の写真及びイラストは、画像をクリックして頂くと拡大してご覧いただけます。


松崎宿よもやま話 6話

yomoyama6.jpg ◎「油屋喜平(きへい)」の箱書き

 看板に記された「油屋喜平」の名は、他にもいくつか見ることができます。

 図1は輪島塗りのお椀を入れる木箱で、「文久(ぶんきゅう)元(一八六一)酉(とり)秋 油屋喜平」とあります。図2は煙草盆の木箱に「油屋喜平 什物」「安政(あんせい)六年(一八五九)未(ひつじ)初頭求之(これをもとむ)」とあり、いずれも購入物品や時期、購入者を示しています。

 また、慶応元年の松崎宿の様子を記録した古文書(井上家文書)の中にも、旅籠屋の亭主の一人として名前を連ねています。

 「喜平」は慶応二年(一八六六)に亡くなったことがわかっていますが、これらの記録からは、亡くなるぎりぎりまで旅籠屋の亭主を務めていた「喜平」の姿が浮かび上がってきます。 

 

◎分家した油屋

ところで、「喜平」が亡くなる前後は、江戸幕府瓦解から明治維新に向けた時代の変革期でした。

 文久二年(一八六二)には、参勤交代の制度が緩められ、それまで一年おきに大名が江戸と国元を往来していたのが、三年に一度となり、宿場町の運営に大きな影響を与えました。明治維新後は、大名を宿泊させる本陣や脇本陣はその存在意義を完全に失い、明治三年(一八七〇)には廃止されてしまいます。

 こうした時代の流れを受け、油屋でも一般客をより多く宿泊させることで経営を維持させる努力がなされたようです。

 その一つとして、それまで武士等の賓客専用としていた座敷部分に増築を加え、一階の間取りを広げると共に、二階を新たに設けて「中(なか)油屋(あぶらや)」という一軒の旅籠として独立させています。

 主屋部分はこれまでどおり「油屋」として経営を続けましたが、一階の土間に「バンヤ」と呼ばれる部屋と賄(まかな)い専用の階段を新たに設け、旅籠として一層の充実を図っています。

 図1・2の箱書きは、「中油屋」と「油屋」に伝わったものですが、亭主「喜平」の子孫への想いが、分家した二つの旅籠にそれぞれ伝わったものといえるのかも知れません。

 

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松崎宿よもやま話 7話

yo7-1.jpg ◎油屋に伝わる品々(家具編)

 これまでに紹介した看板や木箱の他にも、油屋には数多くの品々が大切に保管されていました。

 図1はそれらを引き取った時の写真です。以下では、その中から主なものをいくつか紹介していきたいと思います。

 

     ▲図1 油屋から引き取った古道具類

◎長持(ながもち)yo7-2.jpg

 収納具の一種で、主に衣類や調度品をしまっておくものです(図2)。通常は、納戸(寝所または衣服・器物等を入れておく部屋)や蔵に置かれていました。引き取った時には、お膳や座布団・布団など、さまざまなものが納められていました。

 持ち運びの際には、両端に取り付けられた「∩」形の金具を上に引き伸ばし、そこに棹を通して二人で担ぎ上げます。写真手前のもので、長さ一八〇cm、幅と高さは八〇cmぐらいです。長持が多いほど、物持ちの良い家ということが言えます。

 

▲図2 長持(油屋からは四つの長持ちが見つかった)

◎戸棚(とだな)置戸棚)

 戸棚(図3)は通常、納戸や台所・いろりまわりに置かれ、食器や貴重品などがしまわれました。

 高さの異なる棚を二段重ねて一つの戸棚としていて、中に引き出しを設けてます。上段には引き出しの無いものや、あっても引き出しの数が少なく、主に食器などを重ねて置いていたのかもしれません。

 高さは約一七〇cm、長さが約一八〇cm。幅はさまざまで、約五〇~八〇cmです。漆もしくは柿渋を塗っています。

 

◎仏  壇(置仏壇)

 基本的な作りと大きさは、戸棚と同じです(図4)。上段の戸は障子張りで、中に段を設けてここに仏様を祭(まつ)っていました。

 仏壇の引き出しからは、仏像・仏画やロウソク立てなどが見つかっています。

 なお、これらの戸棚や仏壇は、出来合いのものを購入するのではなく、家を建築する際に家のサイズに合わせて大工さんが作ってしまうのが一般的だったようです。

 油屋と松崎宿にまつわる古道具や古文書を中心に、昔の旅籠や宿場町の様子について紹介します。

▲図3 戸棚(戸には鍵が掛けられる    ▲図4  仏   壇

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松崎宿よもやま話 8話

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◎油屋に伝わる品々(漆器編)

  油屋に伝わる品々のうち、今回は漆器を紹介します。漆器は、今では正月やお祝い事などのおめでたい席でしか見なくなりましたが、昔は日常的な器として使用され、油屋にもさまざまな種類の漆器が残されていました。

 


◎お 膳(ぜん)

  図1・2は江戸時代から明治にかけてのお膳です。箱書きには購入した年月日の他に、「輪嶋(わじま)」とか「内朱外青塗」と書かれているものがあり、これらが今でいう輪島塗りであることが分かります。

  また、箱書きによっては「本堅地(ほんかたじ)」と書かれているものがあり、割れてしまったお椀を見てみると、下塗(したぬ)りの時に布で補強を行う「布着(ぬのき)せ」の手法が高台の個所にも施されており、日常品とはいえ決していい加減な品物でないことが分かります。物価の安い当時と一概には比較できませんが、これと同等品を現在求めるとすれば、蓋無しのお椀の場合で一個あたり安い物で五~六千円、高い物で一~二万円することを考えれば、ある意味ぜいたくな時代だったといえるのかもしれません。

  これらのお膳は数が多く残されていることから、お客の給仕に使用されたものと考えられます。

 

◎重 箱

  四段重ねの重箱で(図3、黒漆に蒔絵(まきえ)で牡丹(ぼたん)の花を描いています。内側は朱漆で、口の部分には金漆の縁取りをしています。時代ははっきりしませんが、長年使用したためか色あせており、明治前後のものでしょうか。

  蓋が二つ付いていて、必要に応じて写真のように分けて使うようになっています。

 

 
◎提(さ)げ重箱(じゅうばこ)

  箱書きに明治の油屋亭主「喜八(きはち)」の名前が記されています(図4)。

  提げ重箱は、野外での酒宴などに使用されるもので、少し前まではこれに御飯とおかずを詰めて運動会の応援や花見に行ったという話をよく聞きます。弁当の数にして十人前程度が高さ三十八cmの木箱に納まるようになっており、非常にコンパクトな作りとなっています。

 

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松崎宿よもやま話 9話

◎油屋に伝わる品々(磁器編)

 今回は磁器を紹介します。  

 油屋は昭和初期まで旅館として経営を続けていたため、各時代のさまざまな磁器が残されていました。

 一口に磁器といってもさまざまで、白磁に呉須(ごす)(あい色の顔料)で文様を描いた染付(そめつけ)、染付に青磁の釉薬(うわぐすり)を加えて焼き上げた染付青磁、染付に赤・黄・緑・金の色彩を焼付けた色絵(いろえ)などがありました。また、明治以降の染付には、ヨーロッパからの新技術を取り入れた銅板転写印判(文様のプリント)のものが多く見られます。これら磁器の産地は有田とその周辺が中心と思われます。

 

◎大 皿

 写真の上段に並んでいるのが大皿です。左側の大皿は直径四十七・五cmで、手描きで鳥や花を描いています。右側の二枚は明治の銅板転写印判染付で、コバルトブルー釉薬の鮮やかな色彩が特徴です。

 大皿には刺身のお造りのほかに、焼物や煮物などが盛られ、誰もが取れるように畳や毛氈(もうせん)の上に置かれて使用されていました。

 

◎蓋付(ふたつ)き碗(わん)盃(さかずき)

 大皿の手前にあるのが蓋付き碗と盃です。碗には手描きで龍や山水が描かれています。漆器のお椀と同じ形をしていて、煮物などを盛ってお膳に使用しました。

 盃はお銚子(ちょうし)燗徳利(かんどっくり)とセットになるもので、こうした形式は江戸時代幕末以降に普及しました。写真は明治から昭和にかけてのものです。

 

◎中皿・小皿

 写真の下段には中皿や小皿を並べています。中皿は直径が十五?二十cmほどで、「膾皿(なますざら)」「刺身皿」「焼物皿」など、盛り付ける中身によっていろいろな形や呼名がありました。

 小皿は手塩皿(てしおざら)とも言い、主に香物(漬物)を盛りました。

 

◎その他の磁器

 その他には、酒宴の席に使用する(盃をすすぐために水をはった脚付きの鉢)や、段重、鉢、火鉢などが油屋に伝わっていました。

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松崎宿よもやま話 10話

yo10.jpg 油屋に伝わる民具を紹介します。

◎将棋盤と囲碁盤
 図1は将棋盤と囲碁盤です。脚の作りが将棋盤・囲碁盤ともに同じで、旅籠の備品として揃えられたものと考えられます。どちらも良く使い込まれており、旅人が将棋や囲碁で旅の疲れをいやしている風景が目に浮かびます。
 囲碁盤の横に置かれているのは、客室で使用された磁器製の火鉢です。明治・大正以降のものです。

◎火熨斗(ひのし)
 図2の壁際にあるのが火熨斗です。現代のアイロンにあたり、頭の金属の器(うつわ)部分に火のついた炭を入れ、その熱で服のしわを伸ばしました。火熨斗の右側にある金属製の容器は、消し炭や火種をいれておくものです。

 ◎団 扇(うちわ)
 火熨斗の手前には大正から昭和初期ごろの団扇を並べています(図2)。右から二番目のものには、クラシックな自動車が描かれ、裏側には「三井郡立石村松崎警察署前 中村自動車部 電話六番」とあります。左端の女性像のものには「三井郡松崎下町  草野商店 呉服 雑貨 洋品」とあります。方々で手に入れたものを油屋で使用していたようです。


◎柄 鏡(えかがみ)
 柄鏡は江戸時代になって普及したものです(図3)。錫(すず)と銅(どう)の合金で作られ、鏡面には映りが良くなるように錫と水銀で上塗りを施していました。年がたって鏡面が曇ると、鏡磨きの職人に磨き直してもらいました。
 背面には「若松」の文字と文様が描かれているほか、生産者を示すと思われる「天下一藤原吉孝」の文字があります。

 


◎三味線(しゃみせん)
 いわゆる長唄(ながうた)用の三味線で、今はやりの津軽三味線と比べてずっと細身の作りです(図4)。棹は紫檀(したん)製で、三つのパーツからなります。胴などの内側に「喜八(きはち)」や「池田菊乃(きくの)」の名前があったことから、明治時代の三味線であることがわかりました。バチは水牛の角を張り合わせたもので、バチのお尻の部分には鉛(なまり)を入れてバランスを調整しています。
 松崎宿では昔から三味線や浄瑠璃をはじめとする芸能活動が盛んだったようで、そうした伝統は今でも引き継がれているとのことです。

 

 

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