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野田宇太郎生誕祭献詩パネル展(12/7~20)終了
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旅籠油屋 テレビ放映されました

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旅籠油屋主屋 落成式 平成31年3月23日
小川県知事来訪! 七夕神社・旅籠油屋

・平成 29 年度
旧松崎宿旅籠油屋上棟式
『ふるさと小郡のあゆみ』のHP公開について

・平成 28 年度
小郡ふるさと歴史検定表彰式

・平成 27 年度
長崎街道 6人旅 道中記 ⑥
長崎街道 6人旅 道中記 ⑤
長崎街道 6人旅 道中記 ④
長崎街道 6人旅 道中記 ③
長崎街道 6人旅 道中記 ②
長崎街道 6人旅 道中記 ①
長崎街道 6人旅 道中記
旅籠油屋主屋の復原工事に伴う見学について
地域文化観光実行委員会
文化庁関連事業

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松崎✿春のイベント情報2015
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おごおり街道七物語 案内板設置のお知らせ
おごおり街道七物語モニタリングツアーを終えて
おごおり街道七物語in松崎ジュニアツアーを終えて
中油屋もちまき
小郡官衙遺跡遺跡発掘現場説明会
油屋おひなまつりを終えて

・平成 25 年度
「薩摩街道を歩く」モニターツアー 道中記

・平成 24 年度
NPO法人小郡市の歴史を守る会設立記念講演会
長崎街道 6人旅 道中記 ⑥
 
 

幕末の志士も駆け抜けた宿場街道に興味  

 小生は3年前、九歴で開催された「長崎街道筑前六宿開通400年記念」の講演を拝聴したのをきっかけに、この長崎街道に残る史跡そして宿場の歴史に改めて関心をもった。

 江戸時代、長崎街道の福岡藩内には筑前六宿(黒崎宿、木屋瀬宿、飯塚宿、内野宿、山家宿、原田宿)がおかれ、この街道を辿って様々な身分、立場の人々が行き来していた。特に各大名の参勤交代、長崎奉行、オランダ商館長や幕末・維新の志士などが往来し、歴史上最も重要な役目を果たした街道であった。

 そして街道が残した宿場には多くの歴史が刻まれている。このような歴史の話を聞くと街道と宿場についてもっと深堀したくなってきた。

長崎街道「筑前六宿」を訪ねる機会到来

 いつの日か機会があれば、これらの宿場を訪ねたいと思っていたところ、思いもよらない筑前六宿の街道めぐりの機会を得ることができた。この話は昨年8月の事ではあるが、郷土史の仲間から山家宿~内野宿を歩いて見ないかと誘われ、即決即断で、自分の脚力、体力を考えず飛びつき参加することにした。

 次の頁から道中記Part(昨年実施)Part(本年実施)を記しているが、宿場の連動性を考え2年分まとめて掲載することにした。この長崎街道・筑前六宿の道中記は、小生が歩いて、見て、聞いて、触って、調べて、感じたことを思いのまま延々と書き綴ってみた。

 
 

  昨年9月15日、旅する仲間4人と山家駅前広場で合流した。現役組2名、年金組2名である。同行の旅人に恥ずかしくないように街道・宿場の基本知識を詰め込んで臨んで見た。

山家宿散策。

 最初に探訪した山家宿は長崎街道だけではなく、小郡・松崎を通る薩摩街道、天領・日田に向かう日田街道の三つの街道が交差する要衝で、大いに賑わっていたそうだ。その山家宿は山裾のせまい傾斜地にあり東搆口から西搆口まで600m程。今でも昔のままの風情を残している。

  山家宿を探訪していると、たまたま西搆口、土塀の家に住まわれている郷土史家の方と出会った。その方に山家宿の歴史について詳しく説明を受け、宿場の街並み、史跡など見どころを案内してもらい、、より理解を深めることができた。

  それにしても、西構口の構築物は素晴らしい。石垣と土塀の門塀が両袖にほぼ当時の形でとどめており山家宿の遺跡として誇れるものである。吉田松陰の九州遊歴の旅「西遊日記」にもこの搆口の印象が記されているとのことである。

※これからご紹介する写真はクリックすると拡大します

 

山家宿西構口

 
 
 

➤福岡藩主のおもてなし。

  また、山家宿で特筆すべきことして、御茶屋における「お出会い」の場である。長崎奉行や佐賀藩主が筑前領内の長崎街道を通行する際には、福岡藩主が山家宿の御茶屋に赴き、自らもてなす儀礼的な対面が行われていたそうである。

▲クリックすると山家宿の説明がご覧いただけます。(外部リンク)

 
 

難所「冷水峠」越え。

 これから、いよいよ「ウワサの冷水峠」である。山家宿から登る冷水峠越えは、ところどころ長崎街道が消滅しており、地図どおり忠実に歩くのは難しい。行き止まりになる場所がある。200号線から険しい街道を上がっていくと、御笠郡の郡境石や猿田彦神社の前を通る。この一帯は木立に覆われて全体が薄暗く、残暑なのに冷気を感じ気味が悪い。山越えの峠道は怪しげな雰囲気がかもち出されていた。

 

 数回の小休止を取りながら歩いていくと、やがて下りに差し掛かり小川のせせらぎが聞こえてきた。小川にかかった小さな「石橋」、そして横には「首なし地蔵」がある。ここまで来るのにかなり体力を消耗していたが、小川に助けられ涼をとった。この場所で持参したコンビニの弁当を食べて30分ほど休息した。

 ➤冷水峠の由来。

 ・・・・冷水峠の由来。説明文には、「流れの冷たい水で旅人は喉を潤し、疲れを癒していた。]地蔵堂の横を流れる小川が冷水峠の名の由来と言われているそうだ。この小川の周囲には湧き水がある。・・・・

 

小川の石橋

石畳み

 

首なし地蔵

 この場所もいや~な感じがする。小生は霊感が強い方ではないが薄気味悪い雰囲気になっていた。気が付けば、休息している後ろにある「首なし地蔵」のせいだ。この首切り地蔵には深い伝説が伝えられているがここではその説明は割愛したい。しかし、この場所は時が止まったように静かで、江戸時代にタイムスリップするような光景が見られ峠街道の歴史を感じる。そして、街道にはところどころ石畳の道も残っており時代劇のロケ地として絵になる。「おススメの撮影スポット」である。ここは、往来も少なく昔の旅人はどんな気持ちで峠を越えたのだろうか。恐怖感を覚えたのではないだろうか。気になる。

 

 この小川の涼で疲れが取れたのか足が軽くなった。その後、下山を続け長崎街道最大の難所といわれる冷水峠を越えて内野宿に到着する。やはりこの峠道はしんどかった。旅人の気持ちが良くわかった。

象もラクダも難所・冷水峠を通った。

 余談であるが、この冷水峠をなんと象、ラクダ、虎などの動物も往来したという。調べてみると、享保14年(1729)3月のことで、象は将軍吉宗公への献上品であったようだ。当時としてはこの珍しい動物を見るために街道は、長崎から江戸まで見物人が鈴なりで、国内では象ブームが巻き起こったそうだ。象は1200キロの道のりをなんと80日間で歩きとおしている。

直方領の庄屋が記述した「萬年代記帳」には「象、通り申す事、3月23日飯塚へ泊まり、小竹休み、木屋瀬泊まり、水を飲むこと一日に五斗宛、足に関節なし、指無して爪あり、爪大栗のごとし」と伝えられている。飯塚では明正寺に宿泊。そして小倉まで行き、そこから船で本州に渡り5月25日には江戸に到着。江戸城浜御殿(現在の浜離宮)にて将軍吉宗と対面している。

 ➤象のいく末は。

 その後の話として、象は10年ぐらい浜御殿で飼育されていたが、ある日飼育係が象に殺されるという事件が起こり、中野の源助というお百姓さんに払い下げされたという。しかし、残念ながらその象は1年後栄養失調で亡くなったと伝えられている。以前、九国博で見た「若冲と江戸の動物画」には、当時の像が描かれていたがその絵は迫力があった。象は室町時代~江戸時代にかけて計7回ほど日本に来ていると記録があるそうだ。


☛ようやく内野宿に到着

 内野宿の西搆口に着いた。この内野宿は国道200号線から外れているので、いたって静かな町である。なんとなく時空を超えてタイムスリップする。

 西構口から東構口までは約600m。内野宿には200軒の商家や旅籠、陣屋などがあり筑前六宿では木屋瀬宿に次ぐ規模だったそうだ。旧宿場の中心にくると脇本陣、旅籠の薩摩屋、小倉屋、長崎屋跡などが両脇にある。これらの旅籠や古家、古民家の前には「○○の跡」と屋号の立て札が続く。観光客にはわかりやすい。

 現在の町家や古民家の大半は、明治以降の建築だそうだが、町並みは江戸時代そのままの道が残り、宿場の面影をとどめている。本陣の脇の道を通っていけば太宰府へ行ける。

 平成十六年に開館した「長崎屋」に立ち寄り、歴史を伝える貴重な資料を見ながら、お茶と和菓子をいただいた。座敷から見る庭園はよく手入れが行き届いていた。休息中に時計を見たら山家駅をスタ-トして内野宿まで4時間以上の時間を費やしていた。しばらくして帰路につく。四人衆元気で山家駅から電車で内野駅に戻った。

 

☛内野宿まで完歩・念願達成

 実際に自分の足で歩いてみることで、その宿場ならではの魅力に出会い、隠された歴史の一端に触れることができた。

 冷水峠越えは長崎街道一の難所といわれるだけあってしんどかったが、街道めぐりの思いが実現でき達成感で晴れ晴れした。

長崎屋内部

 

内野宿西構口跡

 
 
 
 

不安いっぱいの旅立ち。 

 今年の道中は昨年からの延長線上である。内野宿~黒崎宿迄の行程を一泊二日で歩くことになった。長崎街道(長崎~小倉間)の総距離は五十七里(約228km)25宿ある。昔の旅人はこの距離を6泊7日かけて歩いたそうだ。毎日約32.5km歩いている。

 道中は2日間とはいえ歩く距離が長すぎる。昨年の4倍である。数日前までは迷いが生じていたが、考えてみれば象も通行したことだし、なんとかなるさと奮い立たせて出発当日を迎えた。

 

旅人六人衆 原田駅に集合 

 9月19日、集合場所はJR原田駅である。同行者は昨年より二人加わり、六人になった。二人とも小生より人生の先輩である。心強い人が参加した。

 9月半ばとはいえこの時期は秋暑である。小生の旅姿は当時の「道中着」に代わるものとして半袖の速乾吸汗シャツ。「道中笠」は深めの登山帽。「わらじ」はトレッキングシュ-ズ。さらに当時の旅人は身に着けてなかった紫外線や排気ガス防止のためのサングラス、白マスクをつけ「ちぐはぐなスタイル」の旅の装いで挑んだ。

 原田駅前広場には日本地図を完成させた、伊能忠敬像が建っている。忠敬は64歳の高齢にも拘らず九州で測量作業を行い、この原田宿にも宿泊した記録が残されている。同世代の大先輩に一礼してパワ-をもらい駅構内へ。

伊能忠敬像

 

JR原田駅

 出発地は内野からであるが,そこまではJR原田駅から筑豊本線に乗って行った。のどかなロ-カル線である。いまのところ旅人六人衆は元気で気分上々

 
 
 
 

内野を出発~飯塚宿へ

 まず、9:43分内野宿からスタ-ト。まったく人の気配がしない。時が止まったかのような内野駅前から桂川~飯塚宿を目指し歩きはじめた。このル-トは横山峠~虎御前の墓を過ぎたあたりから、ほぼ平坦な道であった。しかも日陰になる樹木や建物が少なく太陽にさらされる。汗だくになってきた。

 街道に沿って阿恵の街並み、阿恵老松神社を通り坦々と歩き続ける。桂川町の豆田天満宮を過ぎたところで、左側に「国特別史跡・王塚装飾古墳」の案内板が目についた。街道から離れているが、豪華絢爛な装飾壁画を有する古墳で一度みて見たいところだが、今回は目的が違うので次回楽しみにして素通りする。

 ひたすら飯塚宿を目指して進むが、単調な街道筋で感動するような史跡が少なかった。天道の街並みにさしかかったところで、疲れも溜まり腹も空いてきた。12:50分、飯塚市穂波庁舎近くの食事処に着くなりコップの氷水を何倍も飲み干した。これで一息つき元気を取り戻した。

 

タイムオ-バ-で飯塚宿を素通り。

 穂波町の食事処で、すでに出発から3時間近くを要している。予定より1時ほど超過。タイムオーバ-である。このペースで歩けばホテル(直方)に着くのが遅くなる。時間短縮のため超法規的処置で飯塚宿に立ち寄るのをあきらめ、最寄りのJR飯塚駅から電車で小竹駅まで行くことになった。(小竹駅で4名下車。直方駅2名下車)

 個人的には飯塚宿跡に立ち寄りたかった。その理由は、旧長崎街道が通っている飯塚の元町商店街(飯塚宿跡)にある「からくり時計」を見たかった。10時から18時の毎正時に仕掛け時計が作動して、時計が割れて背後から象・馬上に乗った武士・西洋人が現れ、その前を大名行列が動き出すというからくりになっている。ストリ-として面白い。福岡・新天町商店街にあるものと、同様のからくりかどうか楽しみにしていたが見られず残念であった。

阿恵老松神社

 
 
 
 
 

小竹駅で下車。直方へ

 飯塚駅から列車にのり込み、小生たちは小竹駅で下車した。これで3駅(新飯塚駅~うらた駅~なまず駅)を飛び越したことで時間の後れを取り戻した。しかし、筑前六宿を踏破(完歩した)したと胸を張って言うには少し躊躇する。残念だったが状況を考えればやむを得ない対応である。

 ➤昔は響灘から遠賀川に鮭が遡上していた

 14:20分小竹駅到着。この小竹駅は遠賀川のすぐそばにある。その川沿いを走る200号線は長崎街道と重なっていた。車の往来がはげしく、歩道がないので土手をおりて河川敷を黙々と歩き続けた。この遠賀川は水量が多く、川幅も広いな~と、仲間と話をしていると昔の遠賀川には鮭が遡上していたというではないか。 

 確認しょうと帰って調べてみると、遠賀川の源流に近い嘉麻市には、鮭をご神体とした「鮭神社」があるではないか。この神社は、1200年前に建てられたといわれ、現在まで氏子たちに大切に守られてきている。遠賀川河口の芦屋から鮭神社のある旧嘉穂町まで約50kmあるが、そこまで100以上の堰を乗り越えてくる鮭があれば来年も豊作であると地元の民は喜んだそうだ。

 これを途中で捕らえると災いに合うとされ、現在も「海の神の使いである鮭」を食べない風習が残っているようだ。また、境内の鳥居脇に夫婦楠が植えられているが、鮭の遡上は産卵を伴うことから、縁結びの御利益にも繋げられたと考えられる。

 もっと調べてみると遠賀川は鮭の遡上する南限の川とされており、博多湾の那珂川には来ないそうだ。

➤直方には長崎街道のル-トが2つあった。

 遠賀川に沿って街道を進んでいくと、「鴻の巣橋」の交差点に差し掛かった。この交差点を挟んで長崎街道が新道と旧道の2つに分かれている。街道を左に行くと、直方の旧城下町(直方市商店街へ)を通る新街道である。街道筋の貴船神社、多賀神社、円徳寺などを経由して日の出橋大橋へと繋がっている。

 もう一つの旧街道は交差点を右に曲がり「鴻の巣橋」を渡るル-トである。この道は赤地天満宮、境橋を経由するが、いずれも下流の「日の出橋東」で合流している。小生たちが歩いたル-トは長崎街道の経路を変更する前の旧街道である。

 この2つの街道ル-トの経緯について調べてみると、1720年直方藩(5万石)が廃藩になると城下町を往来する人が減少していった。旧城下では町の衰退を防ぐため、経路変更を福岡藩に願い出て、1736年から遠賀川の東岸を通行していた長崎街道を変更して、町中を通過させたそうだ。

 その街道の付け替えで直方の町は木屋瀬~飯塚間の人馬継所の中継地として発展し町の衰退を防いだという。有名な多賀神社の「宝永の鳥居」は長清公が1707年に建立したもので、街道はこの前で直角に曲り日の出橋にむかっている。

 

宿泊先であるプラザホテル直方に到着。

 旧街道筋の赤地天満宮を過ぎて、彦山川のある境橋を渡ると、2km先に大きな日の出大橋が見えている。ここまで来れば宿泊するホテルはすぐである。車の往来を避け迂回しながら直方高校近くのプラザホテル直方に16:30分ごろ到着した。すでに先発の旅人2人は風呂に入ってくつろいでいた。

 宿泊したホテルは、小奇麗で朝食付き4600円と激安である。湯上り後、ホテルの居酒屋で一日の疲れを癒し、早めに休んだ。朝食は食べ放題のバイキングだ。このホテルチェーンはお勧めホテルである。

▲クリックすると江戸時代中頃(1700年頃)の直方の説明がご覧いただけます。(外部リンク)

 
 
 
 

長崎街道と並行している河川敷を歩く。

 朝5時に目がさめたが、昨日の疲れは残っていない。体調は上々である。朝食を済ませこれからが体力勝負である。木屋瀬宿~黒崎宿までの道中だ。

 これから歩く黒崎宿までの情報は九歴の講演会で配布された「筑前六宿案内本」で入手している。それを読めば街道筋には多くの見どころがあるようだ。探訪を楽しみにしていた。

 ホテルを8時出発し近く大和青藍高校の横を通りながら一路、木屋瀬宿へ向かう。この街道も車の往来が激しい。危険を避けるため遠賀川の川原に下り遊歩道を歩く。ウォーキングしていた同年代と思われる男性と雑談しながら進んでいく。3km近く歩いたと思う。この人から土手に上がらずこの河川敷を通って木屋瀬の方面に行く道を教えてもらった。道中マップに掲載されていない。地元の人しか知らない道がある。

 中島橋が見えてきた。橋のそばが木屋瀬宿である。ここで歩いてきた遊歩道から土手に上がり長崎街道の道筋に戻った。

木屋瀬宿に到着

 ホテルから遠賀川沿いを歩くこと1時間、木屋瀬宿の西構口に着いた。手前には追分石があって道標に「従是右赤間道、左飯塚道、元分三年」と刻まれている。木屋瀬は遠賀川のほとりにあり、対岸(植木)を渡れば唐津街道「赤間宿」、博多・唐津に至るのである。

 木屋瀬宿は水陸交通の要としてヒトとモノが往来する中継地として栄えてきた。宿場概略図を見ると宿場町は西構口(飯塚側)から東構口(黒崎側 )までなんと約1km、内野宿と違って規模が大きい。往時の繁栄を忍ぶに十分である。

 

木屋瀬宿追分石⇨

➤江戸時代にタイムスリップ

 宿場の街道沿いには当時の町並みが残り代官所、本陣、脇本陣、郡屋、人馬継所など今も重厚な商家が軒を連れる。ほとんどは明治以降の建築だそうだが、漆喰の壁、格子戸、大きな蔵が遠い時空の世界に戻すだけの迫力がある。

 残念ながら、朝9時に木屋瀬宿に着いたので各施設には入館できなかった。しかし幸いなことに御茶屋(本陣)・町茶屋(脇本陣)跡地に建てられている、長崎街道木屋瀬記念館には入館することができた。この立派な記念館で木屋瀬宿に関わる歴史や史料などを見て全体象が深まった。

 木屋瀬宿の町並みは整然と整備され、ここでも江戸時代へタイムスリップしたような気分になった。

☝長崎街道木屋瀬記念館

 
 

➤木屋瀬と秀吉、家康

 聞くところによると、木屋瀬は江戸時代の宿場になる前から、水陸の要所として重要な要人が往来をしていたという。豊臣秀吉は九州征伐をはじめ朝鮮出兵の折に木屋瀬で休憩しており、また文禄の役で肥前名護屋に向かう徳川家康が仮陣したと伝えられている。まさに歴史ロマンを掻き立てる。

木屋瀬から「立場茶屋」へ

 木屋瀬宿を出て石坂→立場茶屋銀杏屋に向かって歩き続けた。5kmほど歩いただろうか、黒崎宿と木屋瀬宿との間にあり、「アケ坂」「中の谷」と呼ばれる急坂に着いた。石坂である。

 ここから傾斜のきつい石段をあがるが、昔はあまりにも急な坂だったので道中のお殿様も駕籠から降りて歩いたそうだ。今では、石段や手すりが整えられ上がりやすくなっている。確かに荷物の運搬は相当こたえるだろう。

 石段を上り終えると「立場茶屋」銀杏屋がある。立派な茶屋跡である。この茶屋は一膳めしなど軽い食事を提供する一般の茶屋と違って、主に諸大名や旅する役人、高官たちが休憩する公的なものだったそうだ。特に目につくのは、庭にある銀杏の大木だ。1836年の火災で主屋が焼失、その後再建されたがこの銀杏にも当時の焼け跡が残っている。

 木屋瀬宿から「立場茶屋」まで歩いた距離はおよそ6km近くあった。

 
 

曲里の松並木

 立場茶屋から黒崎宿に向かった。街道を下っていくと大きな道路に出てきた。千代町のロイヤルについた。お昼はロイヤルで食事することにした。40分ほどで食事を切り上げ再び黒崎宿へとすすんだ。

 下を向いて歩いていると、歩道の上に「黒崎宿長崎街道」の導きプレートが(陶板)埋め込まれている。街道マップを見て進んでいるものの、一瞬道が間違ったかなと心配しているとプレ-トを見つけ安心する。200m~300m間隔で埋め込んでいるのではないか。旅人には親切である。

 いよいよ黒崎宿が近づき、「曲里の松並木」が見えてきた。手元資料を見ているとこの松並木は、江戸時代に徳川幕府が全国の街道に松や杉を植樹させた名残であるという。600mにわたって600本の松の木がある。当時からの木はわずかに残るのみだが、戦後に植林され、現在は見事な松並木を復活させている。

 都会の喧騒が松にさえぎられ、静かな落ち着いた気分にさせてくれる。この松並木道のことは知らなかった。美しいに松並木の景観は鮮烈な印象だ

 

➤維新の三傑も松並木を通過。

 この街道を倒幕・維新に尽力した「維新三傑」と言われる西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允をはじめ吉田松陰、坂本龍馬たちが何度も往来していたと思うと感動する。

 

黒崎湊で繁栄した黒崎宿

 木屋瀬宿から黒崎宿までは約3里(12km)である。ここまで歩いてくるとかなり体力を消耗している事を実感した。最後の力を振り絞り松並木から乱橋を通ってJR黒崎方面に向かっていった。

 黒崎宿は、小倉から長崎へ向かう最初の宿であり、さらに大坂への渡海船が発着するなど交通の便がいいことから、その繁栄ぶりは六宿の中でも抜きん出ていたという。

 この街道筋の乱橋を曲がれば黒崎宿の西搆口がある。そこから東搆口まで約1000メートル、町筋には代官所、人馬継所、関番所、お茶屋や町茶屋が設けられていた。今ではビルが乱立しており昔の面影は見られなかった。

 西搆口から真っ直ぐJR黒崎駅に向かい目的地には16時ごろ到着した。

 黒崎には以前、そごう百貨店があったことを思い出した。当時はこの街の変貌には驚いていたが、今では駅前は活気が失われているようだ。町の賑わいは江戸時代の黒崎宿の方が活況を感じていたかもしれない。

 

JR黒崎駅付近

 
 
 
 

昔の旅人には感服。

 無事に目的地に到着した。道中では途中で三段跳びをしたが、なんとか歩き通すことができ、体力に自信を持つことができた。その気になればなんとかなるもんだと思った。

 今回歩いた距離は内野から黒崎まで約36kmだが、昔の旅人は一日平均10里(約40km)を歩いていたと言われる。現代人の歩く距離は昔とは比較にできないが、一説によれば1日6里(約24km)程度ではないかというが、昔の旅人に比べ距離は6掛である。

 江戸時代の記録によれば、宿場の木戸が開く明け六ツ(夏4時、冬6時)に歩き始め、木戸が閉まる暮れ六ツ(夏20時・冬17時)に歩くのを止めて宿へ上がっていたとのこと。夏は16時間近く、冬は11時近く歩いたそうだが信じられない。現代でいえば超人のなすこと。昔の旅人には脱帽してしまう。

 

歴史の臨場感を肌で感じた。

 私事であるがテレビ・映画の時代劇を見るのが好きである。今回の街道巡りは江戸時代の風情を残すそれぞれの宿場を訪ね、時空の中にタイムスリップすることを楽しみに考えていた。

 実際に自分の足で歩いてみると、書物では味わえないその宿場ならではの魅力やその土地の風景や歴史を肌で感じられ、歴史のロマンの醍醐味を味わうことができた。

 さて次の街道歩きはどこにしますかね。次も長崎街道を歩きたいです。同行者の旅人の皆さんお世話になりました。ありがとうございました。

 

平成27年10月吉日